18:金ヶ崎(かねがさき)宿
・宿場右手奥には家臣団屋敷跡があり往時の雰囲気を残している
・街道は途中の浄化センターで遮断され、迂回を余儀なくされている
・仙台藩と南部藩の境界には境塚が造られていたがその塚か今でも残っている

 金ヶ崎---一里塚跡---浄化センタ---鬼柳---黒沢尻 11.2km
 2013年6月16日





 寺下の先に進むと県道270号線と分かれて左折する。そしてすぐに右折して宿場内に入る。先に進むと伊達政宗が立てた半里杭跡の案内板が現れる。その先を右折し進み、また左折して繁華街となった宿場内を進む。


 その先の交差点を右折して暫く進むと家臣団屋敷跡が右手に現れる。案内板によるならば金ヶ崎城主大町氏の家臣たちの屋敷が小路に並んでいたとのことで、今もその雰囲気が残っている。ヒバの生垣、庭、主屋、奥に畑地となっており、身分は士分であったが半士半農だったとある。確かに雰囲気はあるが、現在も奥に畑があるのかは確認できなかった。


 街道にもどり宿場内を進んでいくと右手に門構えの旧家が現れる。街道は宿場の外れでY字路を右手に進む。


 宿内川を渡り暫く進んでいくと右手の民家の隣に、途中から切断された大きな杉株が現れる。ここが清水端の一里塚跡だ。西側の一里塚はなく、東側だけがのこっていると案内板に記されている。近くに自販機があったので水を買い、冷たい水で一息つく。途中、自販機がなくどうなることかとハラハラしたが取り敢えず安心だ。先に進むと街道右手の三ヶ尻小学校の裏手あたりに十三本塚というのがあるとのことなので、街道からはずれ小学校横の道を探して見たが付近にはそれらしいものはなかったので断念して街道にもどる。


 街道はその先に進むと瘤木(こぶき)町の案内図が右手に現れる。往時は小宿であったようだ。なお街道は、現在は行き止まりなので迂回するようにとの案内が出ている。なぜ行き止まりなのか納得がいかないので確認のためそのまま進んでみる。暫く進むと道路の舗装はなくなり山道となる。


 うっそうとした道をどんどん進んでいくとやがて森中の小高い所にでる。右手に道標が現れ、90度左折した方向を至相去町と示している。左折した藪の中には「旧奥州街道」の手製の札がある。その藪の中を進んでみるが道は無く藪がひどく引き返す。


 仕方なく道標の先に進んでみると、なんとそこには屋根のついた階段があり川を超えられるようなのでこれ幸と降りてみる。機械設備の脇の階段を通り、楽勝だと思って進むと、鉄製の扉が現れ浄化センターの入口を塞いでいる。「おお!、これが行き止まりの理由か!」と納得。しっかりと施錠され、びくともしないつくりだ。通過は困難だとあきらめて一度はひきかえす・・・・。街道はここを通過し、浄化センターの中を通りぬけていたようだ。


 浄化センターの入口に立つと「関係者以外構内の立ち入り禁止」とある。ならば散策用の回り道をつくってほしい、と独り言を残して街道を北へとすすむ。街道は右手の道と合流して進むが、その右手の桜の木の下に「巳己供養」の碑がある。誤記ではないかとの説もあるが。


 街道を進み新幹線のガードを越えて行くと「丁切」というバス停が現れる。ここらが宿場の外れだったのだなとシャッターを押す。暫く進み右手によてだ商店のある交差点の左手に相去御番所跡が現れる。ここは伊達藩の北境の番所があった所で、往時は武頭や足軽ら102名が街道の両側に暮らし、勤めを果たしていたとのことである。


 その先に進むと境塚が左手に現れる。この塚を境いに北は南部領、南は伊達領を示す塚であり、復元されたものだという。藩と藩との境を示す塚で、奥羽山脈の駒ヶ岳頂上から太平洋の唐丹湾まで約130kmに渡って、460基築かれていたとのことである。重要な場所には藩毎にそれぞれが大きな塚をつくり並べて置いていたとのことで、往時は領地争いが激しかったようだ。


 先に進むと、橋の手前の左手に鬼柳関所跡が現れる。ここは南部藩の南端の関所で、二名の役人の他同心、足軽などが常駐し鉄砲や弓などを備えていた。関所は川を利用し橋を渡らないと通行できないように作られていたようである。御仮屋などの宿泊施設や伝馬所などもあり小規模ながら南部藩の宿駅でもあったと説明されている。しかし、商人や旅人などは対象外だったと思える。往時はその先の間宿であった黒沢尻に泊まったのだろうと推察できる。


 街道は左にカーブして進み、和賀川に架けられた9年橋に渡る。19時ちょっと前だ。予定より1時間遅れで黒沢尻宿(北上)に到着した。今夜の旅籠は草のホテルだ。ホテル上階の大風呂はよかったが、夕食を部屋食に変えられてしまったのは、生ビール1杯のサービスがついたとはいえ大減点だ。



(17水沢宿) (19黒沢尻宿)

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