32:藤島(ふじしま)宿
・街道筋の面影としては明治天皇の足跡を残すのみとなっている
・一本木一里塚の塚木は切られ三本木原は現在十和田市の中心街として開発されている
・池ノ平の松並木と一里塚とは街道の風情が残っておりなかなか快適だ

 藤島---一本木---真登地---池ノ平---七戸 15.1km
 2014年11月9日、2015年5月26日





 宿場内に入っていくとY字路が現れるので右へと進み、よなが橋を渡る。右手の古風なつくりの民家の前を通過し、神社のある十字路で左折して県道145号にでる。


 県道を右折するとその先の左手に「明治天皇駐蹕之跡」碑が現れる。ここは小休所となった邸宅跡だとのことである。伝法寺宿と半月交代で継立業務を請け負っていたとのことなのだが・・・・。街道筋の面影のない藤島宿を進んでいく。奥入瀬川を渡るには往時はもっと西側の舟渡しを使っていたのだが、こちら側にはその遺跡がない。御幸橋の手前で振り返って見る。


 御幸橋を渡った先に御幸橋由来の碑がある。明治9年の明治天皇の東北御巡幸にさいしそれまで繰り舟渡しであったが急遽橋を架けることになり、一月で完工、巡幸の7月12日に間に合せたとある。橋の袂で左折して200m位進むと舟渡場跡の標柱が川岸に現れる。


 田圃の中の道を北に進み工場の横を通過して左折、その先で右カーブする坂道を登っていく。直進する街道を進んでいくと右手の県道が迫ってくる。県道と合流する地点にはピンクのスーバー・アサヒがあり、その前に一本木の一里塚が現れる。西側の塚のみで東側は国道建設時に破壊されたと案内板にある。また、往時は人家などなく林や畑だけの寂しいところだったとある。つい何年か前までは大きな欅が自慢の塚木だったのに現在は無残にも切り株しかなく、残念だ。


 一里塚を後にして先に進む。街道はまっすぐ北西に伸びており、十和田の町並みが続いている。江戸時代末期までは三本木原と呼ばれた原野だった。四方をさえぎるものがない荒涼とした芝原だったと言われている。しかし今はその逆で人家が隙間無く続いている状況だ。街道は穂並町の交差点で国道102号線と合流する。その右手に茶屋跡の案内板があるはずなのだが・・・・・、10m程先にあった。このあたりにいつのころからか六軒の茶屋があり、旅人の疲れをいやしていたと記されている。


 左手にスーパーホテル十和田のある交差点を右折して暫く進むと、大鳥居のある太素塚が現れる。そこには新渡戸稲造の祖父新渡戸傳、その息子新渡戸十次郎、十次郎の三男新渡戸稲造の銅像と墓がある。新渡戸傳(にとべつとう)は南部藩勘定奉行のときに三本木原の開拓に着手、その事業は息子の十次郎(じゅうじろう)に引き継がれ、更にその息子七郎(しちろう)もそれを引き継ぎ、親子三代によって三本木原発展の基礎を築いた人たちだとのことである。七郎の墓もここにあるが銅像はないようだ。なお、太素とは新渡戸傳の号である。


 新渡戸稲造は十次郎の三男で、1920年に「願わくば、われ太平洋の橋とならん」と国際連盟事務局次長に就任した国際人だ。『武士道』の著者としても有名だが、三本木原の開拓にかかわってはいないようだ。その他に、新渡戸記念館や「明治天皇三本木行在所」碑がここにある。


 街道にもどりさらに一区画進んだ左手の大通りは官庁街通りと呼ばれる十和田市のメインストリートで、綺麗に整備されている通りだ。桜の季節が特にすばらしいらしい。西に進んでいくと現代彫刻がいろいろ並んでいる。大きなアリは子供たちを引きつけている。その先の図書館の近くに馬の親子の像がある。結構リアルだなと感嘆した。


 街道にもどり商店街を北ヘと進むと、左手に鳥居も本殿も朱色の立派な稲荷神社が現れる。その先に進むと稲尾川を渡るが、この川は新渡戸傳が三本木原を開拓するために奥入瀬川から取水した水路である。16時過ぎ、今日はここ三本木原(十和田)までとして、右手の川沿いのバス停から七戸十和田駅へ向かい帰途につく。

 5月26日、稲生川を後にして先に進むと元町にはいる。右手の街道横に古い祠があるが不明。暫く進むと遥か向こうに若葉の繁った大木が見えてくる。土手山の欅と言われているもので、推定樹齢は300年、松前藩主が参勤交代の折に植えられたものいわれている。このあたりは風雪が強くあたるので高さ七尺くらいの土手を築いて松や雑木を植えたことから土手山の名称がついたそうであるがその土手山はなくなっている。

 花を見ながら先に進み、左手の草はらを見ると真登地(まとぢ)の一里塚が現れる。案内板によるとこの塚は東側の塚で西側の塚は用水路建設のため失ったとある。樹木の奥に行ってみると確かに用水路があった。そうすると今の国道は往時の街道よりも10mくらい東側に造られていることになるなと、納得した。

 真っ直ぐに続く国道を進んでいくと左手に広場が現れ、南洞内のバス停がある。広場の中央には奥州街道の碑が立っている。この碑には進行方向である右手には「至蝦夷松前只今測量中ニ付候」、左手には「至江戸日本橋百九拾参里拾八町」と刻まれている。広場は隣接する会社が造ったようだ。

 坂を下る途中の左手に袈裟懸けの松があるということだったが、大分遠まわりなのでパスする。砂土路川を越えて坂を登っていくとその先には松並木が登場する。左手だけかと思って進んでいくと右手にも松並木が現れる。途中、アヤメが咲き、石碑があってなかなかの風情だ。その先に進むと街道はY字路となり、左手に進む。

 暫くすると左手にモーテル・パリの入口が現れるので左手に入る。するとその先で右手に池ノ平の一里塚が現れる。塚の縁が入口の道路にかかっているようで、かろうじて左右の塚とも残された感じで嬉しいやら悲しいやらという複雑のな感じだ。塚の間を先に進むとその先には案内板があるが、すぐに舗装道路にでてしまう。

 川を越える度に下り登りして進んでいくと、やがて右手に蒼前(そうぜん)神社という赤い社が現れる。そこは七高前というバス停でもある。そこから坂道を下っていき、七戸橋を渡るとその先は七戸宿だ。



(31伝法寺宿) (33七戸宿)

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