44:三厩(みんまや)宿
・1717年より蝦夷地への渡海宿場となり本陣と脇本陣があった
・義経の渡海伝説の元となる厩石の前に松前街道終点之碑がある
三厩
2015年11月7日
7時7分蟹田駅始発の下り列車に乗り三厩へ、8時前、三厩駅を出発。いよいよ最終地の三厩宿だ。増川橋を渡り暫く町中を進むと左手に神明宮の鳥井か現れる。この辺りからは本町となり、その先に進むと右手の国道280号と交叉する。その左手の空き地が脇本陣跡ということだ。また、右手には国道280号がここで終了し、その先は339号となることを示す標識が現れる。 |
左手の国道339号を進むと左手に往時の本陣跡である山田商店が現れる。その横からは庭にある松が見えている。三厩港は松前藩主や幕府巡見使が津軽海峡を渡る際の港であったが今は漁港となっているおり、カモメが並んでいた。 |
街道を暫く進むと右手に厩石が現れる。確かに岩窟があるが三つといえるのか疑問だ。案内板の由来によるならば、源義経は藤原秀衛の遺書のとおり北を目指しこの地に辿り着いた。が津軽海峡が荒れ渡ることが出来ない。義経は三日三晩観世音を安置して祈願したところ、白髪の翁が現れ、”三厩の龍馬を与える。これに乗って渡るがよい”と云って消えた。翌朝岩穴には三頭の龍馬が繋がれおり、義経は龍馬に乗って蝦夷が島に渡ることができた。それからこの岩を厩石、この地を三馬屋(三厩村)と呼ぶようになった、と解説している。なお、江戸時代の東遊記には「義経が所持していた観音像に祈ったら風がおこってつつがなく蝦夷に渡ることができた」と書いてあると太宰は小説『津軽』の中で紹介しいいる。 |
この厩石の前には松前街道終点之碑がある。8時30分、終点之碑の前に立つ。6年前に仙台から歩き初め、いつかは到達するだろうと夢に見てきた松前街道終点之碑が今、目の前にあるのだ。ついに松前道を踏破したのだと喜びが沸き上がる。時間も時間なので公園内には誰もいない。記念に終点之碑の前で自分撮りで写真をとる。終点之碑の横には源義経と静御前の渡道之地の碑などもある。これは観光のために造られたような碑でマッチしないなと感じた。 |
厩石の裏手には義経寺がある。急峻な階段を登ると龍馬山の山門が現れる。寺には円空作の観世音菩薩座像が安置されているという。また1830年以前に奉納した龍馬山碑が弁天堂の横にある。義経寺は、当初円空作の観音像を祀った小さなお堂だったが明治初期に本覚寺の末寺・義経寺となって今に至っているとのことだ。太宰は、東遊記に書いてあるとおり義経の風祈りの観音がこのお堂に祀られていると紹介しているのだが、今はどこにもそのことが紹介されていない。 |
義経寺からは三厩宿や三厩港、その先の北海道が見える。三厩宿では義経がここまで来て蝦夷が島に渡ったという渡海伝説のみが取り上げられているが、江戸時代の渡海港であったことも観光の目玉として取り上げたらいいのにと思う。青函連絡船ではないが三厩?松前連絡船?や湊番所跡などなど・・・・。太宰も義経伝説について「故郷のこのような伝説は奇妙に恥ずかしいものである」といっているのだから。 |