22:日詰郡山(ひづめこおりやま)宿
・宿場内には往時の豪商平六商店や幾久屋があり、銭形平次会館という意外なものもある
・陣ヶ岡は源頼義、源頼朝、南部信直などが陣を張った丘だ、日月の中島は源頼義が造った
・徳丹城跡は政庁跡を示す石が配列されているだけで広大な広場となっている

 日詰郡山---間野々一里塚跡---徳丹城跡---大国神社---盛岡 18.3km
 2013年11月2日、3日





 交差点を通過して宿場内に入り暫く進むと左手に煉瓦塀に囲まれた大きな屋敷が現れる。豪商平六商店の平井六右衛門宅で、大正10年、政治家でもあった12代目六右衛門が建てたもので、時の首相原敬もお祝いにきたとのことである。宿場内には平井邸や新田町の由来をしるした案内板がある。先に進むと橋本町の案内板があり、町の中心部であることなどが紹介されている。宿場内のこの道は珍しいことにゆるやかな坂道なのだ。


 その先の右手、東北銀行前に銭形平次を演じた北大路欣也の手形と銭形平次会館がある。紫波町は、「銭形平次捕物控」の作者野村胡堂の生誕地なので、この手形に手を合わせると音声ガイドが流れる仕組みになっているのだ。なかなか面白い。


 通りの左手には幾久屋(きくや)呉服店がある。元は美濃屋といい呉服、砂金の売買で財をなし、4代目金子七郎兵衛は天保15年に南部藩御勘定奉行元締役にまでなった豪商の一人であった。後に藩命で美濃屋は幾久屋と変わった。なお金子七郎兵衛の子孫に金子キンがおり花巻の宮澤喜助に嫁ぎ、宮沢賢治の父、政次郎を生んだとのことである。幾久屋の隣のふれあいパークには明治天皇が幾久屋で休憩したことを印した聖蹟碑がある。もとは幾久屋の用地だったところだ。


 宿場内を進むとやがて道は突き当たりとなり左折する。暫く進み国道にでる手前で右折して進みやがて国道四号線に合流する。やがて城山入口の交差点にでるがここに一里塚跡があると先達の人たちが書いているので捜したが見つからない。民家の塀の近くらしいのだが・・・・。見つからないのでパスして右折し城山である高水寺城跡に登る。


 大分痛んできた階段を登詰めると斯波氏の居城だった高水寺城跡にでる。足利尊氏によって奥州管領に任ぜられた斯波家長がここを本拠地として奥州を支配していた。戦国時代となると斯波氏は南部氏との抗争に破れ、城は南部氏が占領した。城は郡山城と改称されて城代がおかれた、が1667年には廃止され、城も破却された。案内板に詳しく解説されている。近くでスポーツをしていた親子も去り、夕闇が迫って来たので急いで城跡を後にして今日の宿、柴波中央駅近くの柴波グリーンホテルへと向かった。


 8時30分、ホテルを出、コンビニで昼飯を調達して城山入口の交差点を通過した際に、再び一里塚跡を捜したが見つからなかった。右折して城の下を通過する道には行かずに、一里塚跡を捜して中央保育園への道をたどりその裏側の道を通過して国道から入ってくる小道に出て、城下を通過する道に出た。途中、リンゴ畑がありうまそうな色をしたリンゴが実っていた。 後からの調査で一里塚跡の近くにバス停が写っている写真を「日本紀行」さんのHPで発見した。つまり交差点を越した国道の左手に一里塚跡があったのであり、まったく「思いがけない位置」にあったのだ。街道はこの交差点を右折せずに直進し、その先で右手に入っていくということを示していると思う。ガイドブックにある「交差点を右折して」というルートはどうやら違うようだ。


 街道を進み集落の端にくると右手に高水寺と走湯神社の鳥居が現れる。走湯神社の鎮守は伊豆の走湯権現を勧請したものであり、その側にある大道祖は藤原清衡が勧請したものと案内板にある。また、源頼朝はここに来たおりに鏑矢二つを槻に射立て走湯権現に奉納したともある。歴史のある神社と寺なわけだが、神社には珍しくなぜか男根が祭られている。


 高水寺を後にして暫く進むと二日町の丁字路に突き当たり左折する。すると右手に桜のような花がさいている。この季節に咲く桜もあるのかもと記念にシャッターを押しておいた。街道は国道四号線の手前で右折して国道にいったん出るのだが、坂上田村麻呂などの武将が陣を張った陣ヶ岡を探報するために直進して進む。往復で約4kmの遠回りとなる。


 新幹線のガードを潜って進むと左手の土手の上ににリンゴ畑が広がっている。黄色いリンゴがたわわに実っていたのでカメラを向けていたら、収穫していたおじさんが「食べてみますか」と声をかけてきた。遠慮したが「どうぞ、どうぞ」といわれ5個ももらってしまった。突然の親切に感謝感激だった。美味そうなので1個ぐらいどこかで買って食べてみようと思っていたのでうれしかった。陣ヶ岡を見に行くことを告げると、あそこの森のところだと教えてくれた。新鮮なリンゴをリュックに入れ、お礼を行って陣ヶ岡に向かう。道の両側にはリンゴ畑が広がっている。


 道を進んでいくと右手に首洗いの井戸の案内が見える。ここで右折して暫く進むと右手に藤原泰衡の首洗い井戸跡と案内板が現れる。あまり井戸らしくなかったがカメラに納めてから先に進むと、右手に蜂神社の鳥居が現れたので取り敢えず神社に向かうことにする。坂を上り林を抜けると神社の裏手にでる。最初の案内板にはここは日本武尊の皇子の奉葬地であるとある。その先に行くと前九年の役の時、源頼義、義家親子が安倍貞任との戦いの戦勝祈願として杉を植えたとある。現在、杉は枯れてしまっている。


 神社前の案内板には、1189年、藤原泰衡追討のため北上してきた28万4千騎の源頼朝軍は9月4日よりこの地に宿営したとある。泰衡は家臣の河田次郎を頼って北秋田郡大館付近に潜入したが、次郎の謀叛によって殺害され、9月6日頼朝のもとにその首が差しだされた。頼朝は泰衡の首を八寸釘ではりつけにし晒し首にした、同時に次郎をも譜代の恩を忘れて主人を殺した罪で斬首したと、解説されている。けっこう詳しく藤原泰衡の最後を解説しているので感心した。なお、ガイドブックには、ほかにも坂上田村麻呂が志波城を築いたときの宿営地であったことや、1588年南部信直が斯波氏を破ったときの陣地でもあったと、紹介されている。


 神社の西下に進むと源頼義が戦勝の祈願として奉納した沼内の日月像が現れる。1062年、厨川柵の安倍貞任攻略のため3万2千の源頼義軍はこの地に宿営した。9月15日の月の夜に、源氏の日月の旗が池に映り金色に輝いた。頼義は「吉兆なり」と喜び、軍勢は鼓舞されて、池の中央に太陽と三日月の中島を造らせた。その後、藤原秀衡が蜂神社に参詣したおりにこの故事を聞き中島を修復したと、解説されている。現在は水が干上がり草地となり分かりにくいので月と日の札が立っている。確かに日と月の中島があり、この地が歴史の舞台だったのだな?と実感した。


 古館駅近のガードを潜って国道四号線にもどる。ワンちゃんクリーニングの看板がある国道との合流地点から街道歩きにもどる。先に進むと街道は国道と再び分かれて右手に入る。右手に「月の輪」という看板を掲げた横沢酒造が現れる。陣ヶ岡の月の輪形から名付けたのかなと思いつつ先に進むとやがて国道四号線と再び合流する。それから暫くはもくもくと国道を進む。やがて右手に間野々一里塚跡が現れる。日本橋から136番目のものだ。


 一里塚跡を後にして暫く進むと、右手の小学校の手前に徳丹城跡の看板が現れる。その先に案内板があり、813年ごろに、水害に度々あった志波城にかわるものとして大和朝廷の征夷大将軍・文屋綿麻呂によって造られたとある。城の外郭は350m四方あり、国道の左右に広がっていた。今は広々とした史跡公園となっている。右手の小学校前にあるのは政庁の正殿などの柱跡郡である。


 城跡の左手には、歴史民族資料館と南部曲屋・佐々木家がある。資料館に入ると当日は文化の日で無料だった。また、当日は城柵内から発見されたという木製の兜が初公開されていたが撮影禁止と断りがあった、残念。南部曲屋は馬小屋と人家が続きとなっているもので、外に出ないでも家畜の世話ができるという構造になっている。しかし、これでは馬糞の匂いがきつかったんじゃないかな?とも思われた。私の子供のころの田舎の家も隣に馬小屋があったので、なんとなく懐かしくもあった。


 民族資料館を後にして国道四号線を進んでいく。橋を渡って暫く行くと、右手に今宮神社が現れる。そこの案内板にはこの付近は「塚根」といわれ一里塚があったが消失したと記されている。国道をもくもくと進んでいくが、空はだんだん暗くなってきた。予報が当たりそうだ。


 盛岡南の交差点を過ぎて暫く進んだ当たりでついにポツポツと雨が降ってきた。弱い雨だが傘を出し、ザックカバーを付ける。雨対策を終え、前を見ると赤い鳥居が見えている。信号を渡って見るとそこは大国神社だった。境内には月山、湯殿山、羽黒山の三山碑などや八坂神社がある。往時にこの付近は遊廓街だったので、神社には遊女や楼主たちが奉納した絵馬があるといわれている。しかしバッと見では分からなかった。


 国道四号線を暫く進むと国道と街道との分岐点が現れる。街道は左手の道を進む。なお、国道の右手に一里塚跡があるとのことだが奥州街道のものではないとのことだ。その先に進むと左手に小鷹処刑場供養塔が現れる。この付近は南部藩が300年にわたって罪人を処刑してきた場所であり、天保7年に日誠上人が私費で建立したと解説されている。


 仙北町を進み交差点を地下道で渡るといよいよ北上川を渡る明治橋に近づく。街道は橋の手前100m位のところで右手奥に神社が見えるところを右折する。突き当たりを左手に進み細い路地を進んでいくと北上川にでる。この付近に往時は船橋が掛かっていたとのことである。川を渡るために現在の明治橋の袂にでる。道の反対側には白壁の蔵屋敷、徳清倉庫がある。往時は酒・味噌等の醸造業を営なんでいた豪商の屋敷跡である。塀があって建物はあまり見えない。なお、以前は白壁ではなかったようだが・・・・。さて、明治橋を渡るとついに盛岡宿だ。



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