35:馬門(まかど)宿
・馬門村は戸数約30、粟、稗などの農業と帆立貝中心の漁業が主だった
・南部藩と津軽藩の境界塚が往時のままに残っており往時の緊張感が偲ばれる

 馬門---境界塚---口広---浜子---小湊 14.5km
 2015年5月28日





 街道を進み右手に公園がある辺りから馬門宿に入る。遍照寺の駐車場が左手に現れるが、その先で左手に折れて進むと、右手に南部藩の馬門御番所跡がある。人や物資の出入りをこの番所で監視していた、とある。


 左折した所にもどり、街道は右手の細道に入る。Y字路が現れるので左手進む。民家の人がいたので「この道は先にいけますか?」と聞くと、「いけますけど、その先の川で行き止まりになります。国道にでるには戻ってきて民家の横を上にあがらないといけませんよ」と教えてくれた。先に進んでいくと確かに川があったが、なんと橋が架かっており、橋を渡ってみると左手に進めば国道へ、右手に進めば浜辺となる。その中間に街道があったわけだが今は藪となって消失している。


 海岸沿いの道ならぬ浜辺を進んでみると、どこまでも続いている。途中で国道に抜ける道が現れないかと期待したが道は現れなかった。引き返すには進み過ぎたと思ったが先に藩境界塚が見えているので強引でも浜辺を進むことにする。浜辺はさざ波が打ち寄せる程度で、砂浜はなく海草が積もっているのでその上を歩く。


 浜辺を進んでいくとやがて藩境界塚(通商、四つ森)の広場が現れる。津軽藩と南部藩との境界に築かれたもので、二本又川をはさんでそれぞれ二基ずつ築かれている。また海側にはそれぞれ「従是東南盛岡領」、「従是西北津軽本次郎領分」の標柱が建っている。似たような形状の塚が両側に造られているわけだが、津軽藩側のものはやや草が生えていて塚の手入れが行き届いていない感じがする。往時はこの塚の間を街道がはしっていたのであるが、南部藩側も津軽藩側も街道は広場の外では消失している。


 津軽藩側から国道四号線にもどって進む。暫くすると左手に奥州街道の標柱がたち街道の坂道が現れる。最初の民家の辺りに津軽藩の狩場沢番所があったそうだがそれを示すものは何もない。坂道を登り、坂上で右折して進み、その先で右折して元の国道四号線にもどって進む。右手には狩場沢漁港がある。


 暫くすると国道の左手に残された往時の街道が現れる。狩場沢駅入口を過ぎて左カーブする所からところどころに松並木が現れる。杉並木もあるが近年のもののようだ。ところで、この辺りは山間部なのでか歩道がなく路肩を歩かなければならない。しかし国道なのでトラックが常時爆走してくる。トラックが続いて走っていると前方のトラックは歩行者を発見しているので除けて走ってくれるが、後方のトラックは前方のトラックが過ぎてから発見するので近くまできてからハンドルを切っているのが見えるのだ。歩道なしの国道はヒヤヒヤの連続だ。"国道には歩道を完備せよ!"と国土交通省にいわなければと考えつつ歩く。


 口広沢に入ると右手に往時の街道が右手に現れる。その街道に進むと右手に「無縁堂、村中一同」と刻まれた墓石がある。行き倒れとなった多くの人を弔ったのだろうなと歴史を感じさせる墓石にシャッターを押した。街道はすぐに国道に合流するが、その先の左手に明治天皇御野立所御跡碑が建っているのを発見。その先でまた往時の街道へと進むがすぐに国道に合流する。清水川駅の先の陸橋の所でも右手に往時の街道が現れるので右手に入って進むがやがて国道に合流して清水川を渡る。


 この国道の左手には塀のような設備がところどころについているが、多分防雪のための設備なんだろうなと推測しつつ歩く。炎天下の国道を進み堀替川の先の左手の木陰で昼食にする。野辺地のローソンで買ったおにぎりと大福、お茶などで一休み。


 再び国道四号線を進む。浜子を通過して暫くすると街道は右手に分岐している。街道を進むとやがて線路にぶつかり道は消滅して不明。少しもどって階段を登り国道に復帰し、跨線橋を渡った先で右折する。


 民家の先で右手に入る道があり、線路で消滅した街道の続きではないかとたどって見るとビンゴ、線路の近くまでその道は続いていた。街道は国道に平行してはしっていたのではなく線路近くで右にカーブして斜めに線路を渡っていたようである。ただし線路の側には小川があるようで水の音がしていた。


 街道は県道9号を進み、右手の神明宮の前を通過するとその先は小湊宿だ。



(34野辺地宿) (36小湊宿)

ホーム松前道>馬門宿