15:山目(やまのめ)宿
・配志和神社の鳥居、問屋跡、櫺子格子の旧家など往時を偲ばせる史跡がある
・平泉には毛越寺、柳之御所跡、義経最期の地・高館、中尊寺と見るものが満載だ
・藤原氏以前の安倍氏、清原氏の政庁跡もあって平安時代の奥州が偲ばれる

 山目---八坂神社---平泉---中尊寺---瀬原---前沢 14.4km
 2010年10月8日、9日





 車道との合流点から暫く進んでいくと左手に配志和神社の鳥居が現れる。本殿までは約1km位あるので訪れるのは止める。鳥居の左手、手前には1795年に建てた道標がある。先に進み山目一丁目の右手の「パーマハウスヒサコ」の前に来ると、問屋跡を示す「山目宿問屋・旧上町」」の白い標柱が現れる。


 その先に進むと右手の櫺子格子の家の前には「カスリン台風洪水位(昭和22年9月16日)」と書かれた標識がある。一階の軒下にせまる程の水位だったので驚いた。その先の交差点を越えて進むと右手の角に「気仙の交通路・旧今泉街道入口(横丁)」とか書かれた標柱が立ったいる。その右手先には、街道筋の風情を残す櫺子格子の旧家が現れる。


 街道を先に進むと次のT字路の左手には門構えのある旧家が現れる。その前には「経世の政治家・柵瀨軍之佐先生邸宅 胡風荘」と刻まれた石碑が立っているが、事情は不明だ。


 宿場外れの山目3丁目まで来ると右手の民家の前に「金山奉行の足軽居住・旧久賀町」と記された標柱が現れる。街道の左手には龍澤寺の門がある。江戸時代にも金山があったのだろうかと疑問がわいたが。その先に進み、右手の先に山目駅を確認しつつ街道を進む。平坦でほぼ直進している車道を暫く進んでいく。東北本線から離れて約400m位進んだ所でY字路が現れるので、車道と離れて右手に進む。しかしその道そのまま進むと街道と離れてしまうので途中の小川の先で左折して国道四号線に合流して進む。


 暫く進むと国道は平泉に向かう道とバイパス道とに分かれるので左手の国道を進む、というよりただ直進して旧国道四号線を進む。暫く進むと左手に八坂神社が現れる。森の中に立派な社殿があるが、この神社は吾妻鏡に記されている平泉の五方の鎮守のうち南の「祇園社」にあたるものだと案内板に記してある。


 街道を暫く進むと太田川の橋を渡る。国道の橋を渡って先に進んでいくと街道は右下となるので、堤防に出て土手をおりることにする。堤防へ行く欄干の隙間が塞がれていたので気が引けたが事故を起こさないように慎重におりて、街道にもどる。街道の左手には「天照大神」碑が現れる。街道を暫く進むと平泉駅前のロータリにでるので、そこを左折して毛越寺へ向かう。


 毛越寺の手前には藤原基衡の妻が建てたという観自在王院の敷地跡が現れる。その先に進むと毛越寺が現れるが入場は有料である。「吾妻鏡」には「吾朝無双」(日本に二つと無い)と記された寺で、往時は伽藍には金銀をちりばめ、紫檀や赤木をつぎ万宝を尽くしていたとのことである。


 右手にある庭園は見事な浄土風庭園で、何年か前の源義経の大河ドラマのオープニングがこの大泉が池の映像だったことを思いだした。暫し庭園の雅びの風情を眺めてからそれをデジカメに納めた。16時10分、時間がないと焦っていたので本堂をカメラに納めないで寺を後にしてしまった。


 駅前にもどり街道を進んでいくと右手に伽羅御所跡の標柱が現れるので、そこを右折して暫く進むと生垣に「伽羅之御所跡」の案内板がある。ここは三代藤原秀衡、四代泰衡が居住した館であったと記されている。回りは民家と畑になっているので往時の面影はなにもない。


 街道にもどりその先の花屋の角を右折して進むと右手に標柱が現れる。暫く進むと柳之御所史跡公園が左手に現れる。北上川の側に位置し、一面が広場となっている公園の中に入るとそこが柳之御所遺跡であると案内板がたっている。この遺跡は、平安時代末、奥州藤原氏の政務の場である平泉館(ひらいずみのたち)と考えられていると記されている。


 それぞれの館があった所には解説がついており、園池も再現されている。芭蕉が訪れた時にはたぶん草が生い茂った平地が広がっていたのだろうと思い致すと、「夏草や兵共が夢の跡」という歌が見事にしっくりくる光景だなと思えた。


 しかし、余韻に浸っている時間もなく早々に街道にもどりその先に進む。暫く進むと左手に空き地があり、その側の田圃の先に無量光院跡が現れる。広場の案内板には藤原氏三代秀衡が宇治の平等院鳳凰堂を模して建てた寺院があったと浄土庭園の再現絵とともに記されている。今はちょうど発掘中らしい。ここで時間は17時前となったので、今日の探訪はここまでとして平泉駅にもどり一関の旅籠に向かった。


 10月9日8時30分、田中屋旅館をたち東北本線の平泉駅におりる。柳之御所遺跡を経由して路地を通って義経の最期の地・高館に向かう。高館の階段の手前の案内板によるならば、四代泰衡は父の遺命に背いて義経を襲い、義経は衣河館にて妻子を連れて自刃したが、この地は衣河館なのだろうかと疑問を記してもいる。私的には「まあいいか」という思いで階段を登っていくと左手に義経堂が現れる。その中には甲冑姿の義経像が祀られている。


 また、眼下には北上川がとうとうと流れ、階段の右手には芭蕉の名句「夏草や兵共が夢の跡」の碑がある。芭蕉は1689年旧暦5月13日(6月29日)、この地に立ち生い茂った夏草が風に揺れる様を眺めつつ奥州藤原氏の盛衰に涙し、かの名句を詠んだようだ。


 高館を下り、東北本線の踏切の手前右手には卯の花清水がある。芭蕉たちもたちよったので曾良の句碑がたっている。が、私はうっかりしてしまい、探訪するのを省略してしまった。残念! さて、国道を斜めに横断して先に進むと中尊寺参道前にでる。時間は10時、すでに大勢の観光客が来ている。参道手前の右横に武蔵坊弁慶之墓と刻まれた大きな石碑があるが、その奥にある小さな石が本来の弁慶の墓石であるとのことだ。


 いよいよ参道に入り、杉木立に囲まれた月見坂を登っていくと左手に弁慶堂が現れる。火伏の菩薩と義経、弁慶の像が安置されている。


 その先に進むと右手の門の奥に本堂が現れる。中尊寺は天台宗東北大本山であり、本尊は阿弥陀如来である。観光客と一緒になって進み、ツアー客用の解説をツアー客に混ざって聞く。


 讃衡蔵前で拝観券を買い、讃衡蔵内の三体の丈六仏、金銀の中尊寺経を見学し、次にいよいよ金色堂へと進む。列を造り観光客の一人となって鞘堂へと進むと、金色のお堂と仏像群が現れる。「へえ~」これがかの光堂なのかと感嘆する。1124年の中尊寺創建当初の唯一の遺構である皆金色の阿弥陀堂は荘厳の限りが尽くされ、極楽浄土を現世にあらわしているとのことである。内部は撮影禁止なので紹介できない。が、旅行パンフには載っているのでコピーをさせてもらった(ごめんなさい)。


 その先に進むと左手に芭蕉の句碑と芭蕉像が現れる。「五月雨の 降り残してや 光堂」を刻んだ石碑は達筆すぎてまったく読めないからか、読みやすい木製の句碑もたっている。先に進むと金色堂を覆っていた昔の鞘堂が現れる。


 これで中尊寺の主な名所は見学したので月見坂を下っていくと左手に東物見台があるので衣川を見てみると、旧国道の橋がなくなり、右手に蛇行している新国道の橋に変わっている様子が見える。


 街道にもどり国道四号線を北上し、右に蛇行しつつ新衣川橋を渡る。ちなみに芭蕉はこの衣川で引き返しているのでこの先に芭蕉は登場しない。橋を渡り切った堤の上で左折し街道から離れて、藤原氏以前の当地の支配者だった安倍氏や清原氏の城だった衣川柵跡を探訪する。堤の上を暫く進んでから下の道に下りて西へと進んでいくと藤原氏が立てた接待館遺跡が現れる。柳之御所跡に匹敵する程の規模のものだったと案内板に記されている。


 右に回り込んでいる道を進むとその先の左手に「衣の関道」の標柱がある。藤原氏が支配していた時代、中尊寺の建立に伴い幹線道を境内に通し、衣関を寺の北側の衣川の手前に設け、その衣関から衣川を越えて北上する幹線道の通称がこの関道であったとのことである。またここでは七のつく日に市がたったので七日市場といわれていたと記されている。


 その先のT字路には長者ヶ原廃寺遺跡等の道標が現れるが直進して並木屋敷(衣川柵)跡へと進む。暫く進むと右手の空き地に並木屋敷跡の標柱と案内板が現れる。1045年頃、蝦夷の血をひく安倍頼時が当地を支配し政庁を置き並木屋敷と呼ばれていた。その後奥六郡を清原武則が支配し衣川柵(城)を造ったと記されている。藤原清衡が奥州を支配する前の時代のことだ。


 さて国道四号線にもどり北へと進んでいくとY字路が現れる。ここを左手に進み瀬原集落に入る。ここは間宿だったところだ。集落の北側の端は変則的な十字路で、角は郵便局だがトイレが付いているので利用させてもらった。


 更に坂道を登り、やがて下っていくと往時は直進していたが、高速道路で塞がれているので左に迂回してトンネルを潜り、徳沢川の橋を渡り、右手の高速道路沿いに進む。が、民家の前で街道は消失・行き止まりとなる。少しもどって車道に出、左に迂回する道をとる。


 途中で、13時となったので収穫の済んだ田圃の端でランチタイムにする。この付近の街道は高速道路建設で消失したがこの先でそれを探索できるのだろうかとワクワクしながらおにぎりを頬張る。


 一休みしたら早速出発し600m位先で右折して丘の上にでると、そこから左手に伸びる道が街道であるとの地図付案内板が出ている。しかし右手にあった徳沢一里坂から砥草長根については何の説明もない。そこで先達の紀行にある、右手の土手の手摺りを探すと草むらの中に壊れた手摺りを見つけた。それを登っていくと一面草に覆われている台地にでる。誰かが歩いたらしい踏み跡をたどって進んでみたが、数m進んだところで諦めた。とても草が深くて歩けたものではないのだ、無念にも撤退だ!


 前沢宿に向かって進むことにする。真っ直ぐに伸びる工業団地の道を暫く進むと、緩く右カーブしその先で長い下り坂となる。白鳥川を渡り右折して高速道路下を通過し、その先で左折して小道に進むとその先は前沢宿だ。



(14一関宿) (16前沢宿)

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