06:古川(ふるかわ)宿
・緒絶橋は初期万葉のころからはじまるらしく歌枕として有名な橋とのことだ
・街道の途中に「聖骨傳眞居士」と刻まれた石碑があるが道標の部分が読めない

 古川---江合橋---道標石碑---荒谷 5.4km
 2010年5月16日、17日





 「奥の細道湯けむりライン」の踏切を越えて進むと左手に瑞川寺が現れる。伊達政宗の重臣鈴木元信が再興した寺であり、風格のある山門は古川城の搦手門を寺門風に改築して寄進したものであり、室町時代の建築様式のものだとのことである。


 その先に進むと歌枕の地として名高い緒絶橋が現れる。案内板にはこの地は玉造川(現、江合川)の川筋が7世紀ごろから東に移動してしまったことによって残された川筋であることから、玉の緒(いのち)の絶えた川・緒絶川と呼ばれ、その上に架かる橋は緒絶橋と呼ばれたと解説してある。また、「みちのくの をだえの橋や 是ならむ ふみみふまずみ こころまどはす」と藤原道雅が詠んだ歌が勅撰和歌集に選ばれたことによって歌枕として定着し、全国に知られるようになったことも記してある。私にとっては初めて知ったことであるが・・・・。


 川には鯉がおよいでおり、橋の隣りには櫺子格子の食事所があり、またその横には蔵造りのみやげ物屋や食事所があり、お客さんも多く来ていて観光地となっている。


 緒絶川沿いに暫く北に向かって進んでいくと左手に小学校が現れるが、そこは古川城跡である。案内板によるならば、古川城は中世のころ大崎氏の家臣だった古川氏が居城としたことに始まり、やがて伊達政宗の重臣鈴木元信が居をかまえた城でもある。元信の没後は伊達藩の直轄地となり城は廃止されていたと説明しいる。なお、大正デモクラーの思想的指導者だった吉野作造の生地でもあるので、「ゆかりの学舎」と案内板に記されている。


 街道にもどり、その先の交差点を右折すると七日町となり往時の宿場に入ることになる。現代的な商店街となり街道筋の面影を残すものはなにもない。街道は七十七銀行の手前で左折して宿場を跡にするのであるが、今日のてくてく旅はここまでとし、プラザホテル古川に泊まることにする。古川ではホテル間の過当競争がおこっているのか大分安い料金だった。しかし近くにコンビニがないのにはおどろいた。


 5月17日9時00分にホテルを出発。コンビニによって食料をかいこんでから七十七銀行の近くの街道にもどる。綺麗に整備された道を北に向かって進み古川宿を後にする。暫く進むと古川工業高校の先で崩し字で刻まれ、よく読めない明治天皇の記念碑が現れる。街道を進んでいくと右手に門構えの旧家が現れたと思ったが、そこは介護老人保険施設だった。


 江合川の橋を渡り、そのまま直進してしまった。その先で地図を見て気づき、橋の袂で左折して進む。往時は橋そのものが左手にあったようである。街道はY字路を右に進み、門構えの旧家を左手に見て進み、その先のT字路を右折する。


 交差点を越え新幹線手前で左折して進むとY字路が現れる。そこには「聖骨傳眞居士」と刻まれた石碑がある。ブロック塀が近づき過ぎていて裏に書かれている文字が読めなくなっている。「東 田尻 北 荒谷」とかと刻まれており道標を兼ねていたものらしい。ここで街道は左手に進みやがて国道四号線と合流、直ぐ先でY字路を左手に入り国道と分かれて荒谷宿へと向かう。斗瑩稲荷神社参道入口の看板が立っている。



(05三本木宿) (07荒谷宿)

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