20:花巻(はなまき)宿
・花巻城跡の見学に気をとられ宿場への街道ルートを見逃してしまった
・花巻宿の中心だった四日町の石碑はひっそりとした裏通りにある
・宮野目一里塚や宮沢賢治の羅須地人協会などが復元されている

 花巻---宮野目一里塚---早池峰追分碑---石鳥谷 6.1km
 2013年6月17日





 豊沢橋を渡り、信号のある交差点の左手角に豊沢一里塚跡の案内板が現れる。江戸から130里を示すもので、別称錦塚と言われ花巻の表玄関に威容を誇っていたと記されている。が、なんで錦塚なのかは不明である。その先に進み十字路を超えて進むと宮沢賢治の生家が現れるが見学はできない。


 街道をもどり、手前の十字路を左折し西へ進むと松庵寺前にでる。松庵寺には飢民を介護する「救け小屋」があり、飢饉の時には粥の施しをし、亡くなれば寺で手厚く葬ったとのことである。そのため寺の前には飢餓供養塔群があったとガイドブックに紹介されているが、今は寺内にいくつか残っているだけのようである。


 寺を出て左折して進み、坂道を登っていくとが右手に花巻市役所現れる。その交差点を右折して進むと花巻城跡に入る。花巻城は南部直政により整備拡張された城であるが、直政の没後は南部藩の郡代がおかれていた所である。城跡の右手には二の丸にあった往時の時鐘が移設されてある。また、その近くには大手門跡の碑がある。さらにその先には城の配置図があるが解読している暇がないので一応シャッターを押して置いた。


 市役所の右隣の道を進み右にカーブしそのまま直進していくと左手に鳥谷ヶ崎神社があり、境内には往時の搦手門が残っているとのことだが遠いのでパス。途中で左折して小学校の校庭に入る。小学校が城跡内にあるので校庭を通過して城跡の外にでることになるのだ。校庭の右端には瓦屋根の建物があるので学校の方に訪ねたら武道館と弓道場とのことだった。校庭を先に進むと御役屋跡、花巻城本丸入口の表示杭が現れる。石垣のある坂を下っていくとそこは早坂御門跡だった。


 坂を下ると車道と交差する。ここで右折して車道を進むと宮沢賢治が名付けたイギリス海岸にでるのだが、約1kmを往復するのは辛いのでパスして宿場跡に向かう。一日市町の商店街を進み、信号のあるところで左折し、すぐの所を右折するのが四日町なのである。現在はたんなる裏通りのように見えるが往時はここが繁華街だったのである。


 通りを進んでいくと左手に「明治天皇御聖蹟」の碑が現れる。その先には「花巻城下町発祥の地」の碑があり、四日町が最初に宿場となり次に八日町と一日市町が開かれたと引き出し式の案内にしるされている。また、その左奥の花北地区コミュニティ消防センターの横には「明治天皇御聖蹟」の案内板があり明治9年と14年に明治天皇がこの宿場に宿泊したことが記されている。


 私は当初、西側の二本目の通りを往時の繁華街と見越して歩いたみたが何もなく、広隆寺があっただけだった。違うなと気づきいったん車道に出て四日町郵便局あたりを探索しつつ思案する。宿場ではないと見なしていた一本目の道を歩いてみることにして、やっとさきの「明治天皇御聖蹟」の碑を捜し当てた。炎天下での右往左往は辛いが゜これもまた街道歩きの楽しみでもあるなと実感した次第です。


 ついでにもう一つ。ガイドブックで指示されているとおり花巻城の中を歩いてきたのだが、ふと、「往時の街道は城の中をとおっていたのか、そんな馬鹿な」と今気づいた。そこで「花巻城下町発祥の地」の地図を見て推測するに、城を右手に見て進む道こそ街道だったのではないかと思える。つまり、豊沢橋から直進して上町の十字路を左折し、突き当たりを右折して吹張町を進み、坂本町交差点を右折し、すぐに左折、右折左折し、川を渡った先で左折して四日町に進む、というルートこそが往時の街道のルートではないだろうか、絵図もそう見えるのだが。どうだろうか・・・・。


 コミュニティ消防センター前を後にして、つき当たりを右折して車道に出て左折する。花巻の宿場を後にして街道はやがてY字路にでる。左手に行くと奥州街道の古道(江戸中期以前の西側ルート)になるが街道は途切れている。時間が押してきているので古道は探索せずに右手の街道(東側ルート)を進む。街道はすぐに国道4号線に突き当たり左折して国道を進む。


 暫く進んで行くと、前方に道路標識が沢山現れる。とにかく直進して北に向かえばいいので、東宮野目の交差点を直進する道を選択する。その交差点の左手に新設の一里塚が現れる。驚いて近づいてみると宮野目一里塚の案内板と石碑と二つの塚が再現されていた。この一里塚は江戸から131里(約515km)の塚であると記されている。よく見ると平成25年3月に再現したと記されている。なんと、できたばかりなのだ。一里塚があると街道の雰囲気を感じられるので街道歩きにはうれしいかぎりだ。地元宮野目の方々に感謝だ。


 街道(国道)は真っ直ぐな一本道となる。右手の木々の奥には花巻空港があるので、飛行機の音も時折するが、それよりも国道を驀進するトラックなど車の音が途切れなくつづく。人通りがないせいか、草の伸びた歩道をもくもくと歩く。


 右手の空港が尽きる地点までくると、左手に二つの追分の碑が現れる。享保の追分碑には「右ハはやつ祢みち」「左ハもりおかみち」と刻まれており、早池峯信仰をする人達への道しるべだったようだと案内板には記されている。元は街道の東側にあったとのことである。


 ここで、右折して花巻農業高校の敷地に復元された宮沢賢治の「羅須地人協会」を見ておくために探訪する。高校の正門から入ると右手に羅須地人協会の門が現れる。その奥に近隣の農村の人々の教育のために活動していた賢治の像と家が現れる。そして、家の裏手には「下ノ畑二居マス 賢治」と書かれた黒板もある。すぐ近くに賢治がいるかのような気になる。この家はもともとは花巻の桜町にあったものを移設したとのことである。


 さて、時間は17時30分となり、これ以上街道を進むことはできないので、今回の旅はここまでとし、花巻空港駅から一旦帰宅することにする。2013年11月2日、花巻空港駅前に立ち再び探訪を開始する。まずは国道にでて北へと向かう。ほぼ真っ直ぐな国道四号線をもくもくと進む。


 右手のNISSANの看板を過ぎて暫く進むと、西側に塚のような紛らわしい盛り土があるがそれは関係ない。その先に進むと右手に江曽一里塚が現れる。東側のみが現存していると案内板に説明されている。塚の隣には明治天皇御小休所の石碑がある。また、その先の左手には小森林館跡の案内板が現れる。それによると中世に稗貫郡を統治していた稗貫氏の家臣・小森林氏の居館がこの地にあったが、奥州仕置きで稗貫氏とともに滅亡したとある。


 先に進むと滝沢川の手前で逆ひばの看板が見え、左手にひばの古木が現れる。見る角度によっては根本が細く見えないことも無い。弘法大師の杖が根付いたという説があるとのことだが、まえにもどこかで聞いた話だ・・・。


 国道四号線が左にカーブして直線の旧国道と分かれる地点を四号線とともに進み、その先で左折して古街道沿いにある光林寺と向かう。なぜかいまでもタンポポが田圃の横に咲いている。


 古街道より光林寺に向かって行くとは冠木門が現れる。1701年、公儀により門前には下馬札が立てられ、通行人はすべて下馬したと解説されている。多分、古街道に面した冠木門前に立てられていたのであろうが、古街道からは離れているので街道の通行には不自由しなかったのではと思えたが。その先に進むと南朝三代の長慶天皇が光林寺に立ち寄った際に腰掛けた石が「腰掛け石」であり、手を振れた松が「手撫での松」であるとの解説が案内板にある。いまでもその石には囲いがされていて威厳が与えられている。


 白壁の門を潜り境内に入ると、境内には歴史を表す寺と大きな杉や遊行寺にあったのと同じ一遍上人像がある。宗祖一遍上人の従兄弟河野通次によって1280年に開かれたといわれ、時宗総本山遊行寺よりも古いようだ。


 光林寺を跡にして古街道を進む。北寺林の交差点を右折して南部杜氏の里を訪ねる。ちょうど町のイベントが開かれていて大勢の人が集まっていた。


 有料の南部杜氏伝承館には石鳥谷の南部杜氏による昔の日本酒づくりの様子がビデオで紹介され、大きな桶など当時の道具がいろいろ展示されている。今は道具や勘やコツも科学的な方式に変わっているとのことだった。外にでるとラムネの早飲み競争で会場は盛り上がっていた。私もおでんを買い、用意したおにぎりも食べてランチタイムとした。なお民族資料館というのも別にあったようだがそちらはパスした。


 線路に平行な道を北に暫く進み、右折して街道である県道265号線にでる。右手にセブンイレブンのある丁字路を左折して進む。その先は石鳥谷宿だ。



(19黒沢尻宿) (21石鳥谷宿)

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