17:水沢(みずさわ)宿
・宿場の東側にはその昔朝廷軍と戦った蝦夷・アテルイの生誕碑がある
・宿場内には武家屋敷や明治の屋敷とかがあり、偉人も多くなかなか見どころが多い
・埋蔵文化財調査センターと胆沢城跡は古代の奥州の歴史を知る上で必見だと思う

 水沢---胆沢城跡---胆沢川---金ヶ崎 7.7km
 2013年6月16日





 新幹線水沢江刺駅からタクシーで神明町1丁目の跡呂井文化センターにまで行く。ここはその昔、800年ごろ、大和朝廷軍の平定(侵略)に反対して戦った蝦夷軍の長・アテルイの生誕の地であるとのことだ。隣は神明社という神社であり、境内には「古代東北の英雄、アテルイ王千二百年祭記念碑」がある。文化センターには鍵が掛かっており内部は不明だった。


 なお、近くで農作業をしていたお爺さんに聞くと、「誕生地であると学者もはっきり断言できないといっていた」とのことだった。とにかく胆沢の蝦夷だったのだからまあまあ遠うからずということだと思う。なお、今年はNHK?TVで「アテルイ伝」が放送されたが、原作の『火怨』(高橋克彦著)を読むと伊治城やアザマロ、アテルイ、モレ、そして坂上田村麻呂などの戦いについて知ることができる、参考までに。


 さて、本来の水沢宿にもどるとする。まずは袋町(県道226)を200m位西に進み、左手の路地に入るとその先に水沢公園が現れる。公園の左手に幕府の鎖国政策を批判した蘭学者・高野長英記念館がある。公園内にはそのほか関東大震災後に東京再建に手腕を発揮した後藤新平の像がある。公園の隣には駒形神社がある。


 横町に入ると右手には郵便局が現れるが、その手前には横町の由来を記した案内板がある。江戸中期には90軒をこえる町家が軒を連ねた繁華街だったと記されている。宿場内を進むと道路上を横断しているメイプルの連絡通路が目を引く。


 その手前を左折して路地裏へ行くと右手に高野長英旧宅が現れる。ここは長英の母の実家で江戸にでるまでの一時期を暮らしたところである。その隣には武家屋敷の高橋家がある。ここの通りは往時は大畑小路いわれた武家屋敷通りだった。


 北に進み左手の大通りに出て、左手の小路に入って日高神社に向かう。手前に吉田家の門が現れる。日高神社に向かうが遠いので取りやめ引き返す。大通りにもどりその先の吉小路に入ると、内田家・武家住宅資料館現れる。内田家は留守家の家老につぐ大番頭を努めた家である。屋敷内の資料館には、鎧やゲーペル銃、旗印などが並んでいる。


 また、水沢城下の絵図(1688年)と現代の道路とを重ねた地図が床いっぱいにガラス張りで表示されている。この大胆な展示には驚いた。ここで水沢宿にはいる奥州街道が絵図の端にのっているので、説明してくれた方に真城一里塚からの経路を聞いたが資料もなくわからないとのことだった。


 大通りを更に北へ進むと水沢城跡に立つ奥州市役所が現れる。庁舎横には往時の三の廓の生き残りの老木・姥杉が立っている。なお、市役所前には武家屋敷八幡家がある。


 大通りを先に進み、右折するとその角に後藤新平記念館があるがカメラをむけるのを忘れて進んでしまう。宿場の通りに出て、長光寺へと向かうとメガネ橋と称される長光寺橋が現れる。川沿いにはけやき並木があり散策にいいコースだ。街道にもどると、正面に水沢信用金庫があり、その横に「明治天皇行在所跡」の碑がある。宿場内は日曜日だったせいかシャッターが降りている店が多いが、シャッター通りかもと思いながら北へと歩く。


 柳町で左折して立町へと進む。代官所のある交差点の少し手前の左手に松本家が現れる。ここは明治天皇が巡幸できた時に、大久保利通と大隈重信が宿泊した呉服商の家だとの石碑がある。その先には往時、脇本陣があり、右手には本陣があったと絵図に記されていたがそれ示すものはなにもない。


 街道は立町の交差点を右折して北へと進むが、その曲がり角正面には上伊沢代官所跡がある。ただし「伊沢」は「胆沢」の誤記ではないかと思うのだが。いよいよここから水沢宿を離れることになる。途中コンビニがなく昼食を買えなかったので、どうしようと思っていたら目の前にそば屋があった。暖簾が掛かっているが客の出入りがないので不安を抱えて戸を開けると小ぎれいな店だった。さっそくカツ丼を注文してたべた。


 腹ごしらえして店を出るといよいよ街道歩きだ。天気予報では曇りだったがカンカン照りだ。一応日焼け止めを塗ったが、日陰が欲しいな?と思いながら歩きだす。東北本線を超え、その先で左手に進み国道4号線を歩く。中ノ町の交差点で右手の街道跡を進み、県道270号線を進む。水田の広がる街道を進んでいくと左手に奥州市埋蔵文化財調査センターの案内塔が現れる。


 左折して調査センターを見学する。200円を払い2階で上映していた蝦夷と大和朝廷との戦いの動画をみる。観客は二人だけだった。1階には再現されたスマートなアテルイ像があり、2階には映像館といろいろな土器や瓦、アテルイの首像、坂上田村麻呂像などなど、蝦夷と胆沢城に関係するいろいろな物が展示されているのを見て回る。


 再現図によるならばこのセンターの正面に胆沢城の政庁があったということなので、そこを見学しようとセンターの左手に進み、道のない広場を進んでくと街道の横にでる。そこには胆沢城跡の石碑と胆沢城の全貌を示した案内板があり、広々とした草原が広がっている。平安時代には確かにここに広大な胆沢城があったのだと草原を歩きながら想像してみる。


 街道を先に進むと右手に鎮守府八幡宮の朱塗りの鳥居が現れる。しかし胆沢城の外れまではそうとうな距離があるので探報はパスして先に進むことにする。胆沢川の橋を渡り、その先に進むとやがて金ヶ崎宿に入る。



(16前沢宿) (18金ヶ崎宿)

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