39:油川(あぶらがわ)宿
・西田酒造の北側には「羽州街道、松前街道合流之地」碑がある
・六枚橋の先には巨大化した盆栽の「昇竜の松」がある

 油川---六枚橋---後潟---四戸橋---蓬田 13.8km
 2015年11月4日、5日





 往時には町の入口に代官所があったがその痕跡はない。街道を進んでいくと左手に浄満寺の赤い山門が現れる。門の横には円空作の釈迦如来座像があると案内がある。戦国時代に油川を支配していたのは南部氏配下の豪族、奥瀬氏だった。しかし1585年津軽為信に追われて南部に去った。浄満寺は奥瀬氏の菩提寺だった。本堂裏にその墓碑が並んでいる。


 その横には、天明3年(1784年)の飢饉で餓死した人を埋葬した千人塚がある。飢饉で餓死した人300人、流浪に出た人400人、遺体が道端に横たわっていても誰も手にかけないので見かねた代官が浄満寺の裏の畑に大きな穴をほり埋葬し、以来読経を捧げてきたと案内板に解説してある。天明の飢饉では油川と後潟で全住民18,600余人の3分の2が死んだという。


 また、本堂裏の左隅には青森開港(1624年)の恩人といわれている森山弥七郎の供養碑がガラスのケースに入って保管されている。この碑は当初は寺内野に建立されていたものと解説されている。一通り見物した後、山門の中にベンチがあったのでここでランチタイムにする。円空作の釈迦如来座像の探索をすっかり忘れておにぎりを頬張っていた。


 浄満寺を後にして先に進むと右手に黒板塀の西田酒造が現れる。店の長い庇の下は「こみせ」という造りになっており、積雪時にも通行できるようになっている。西田家は、古くは麹屋を営んでいたとのことである。往時には11軒もの造り酒屋が油川にあり、商家、船問屋、船宿、民家が軒を連ねたいたという。


 西田酒造の北側には「羽州街道、松前街道合流之地」碑がある。福島県の桑折宿でわかれた羽州街道は出羽を経由してここで合流しているのだ。街道の合流地点でもあり、制札場があるほどに賑わっていたが、明治3年に弘前-青森間に油川を経由しない直通道路が開通し衰退したようである。


 西田酒造の北側の先を東に入った所に油川湊跡である。湊番所が置かれていたというがその形跡はない。今は漁港なっている。江戸時代の油川は外ヶ浜を代表する湊として栄、青森港が開かれて以降も賑わっていたが新道開通の打撃はさけられなかったようである。


 油川宿を後にして国道280号を先に進んでいく。国道には歩道がないが、車の通行もすくないので一応安心して歩ける。これは津軽線の西側にバイパス道ができているのでトラックなどはそちらを走っているからだと思える。海の東側には浅虫温泉のあった半島が見える。


 陽が傾いてきていると感じたころに六枚橋が現れる。橋を渡るとその先の右手にくねくねと曲がった「昇竜の松」が現れる。松前藩の参勤交代のとき代々宿泊所つとめた赤平家に、藩主が黒松の盆栽を一鉢贈り労をねぎらった。その黒松を大地に植え替え、大きくなったもので、推定樹齢500年と解説されている。なお、近くの民家にも何故か同じような盆栽的な松があった。


 暫く進むと後潟駅入口が現れる。時刻は16時を過ぎとなっているので今日のウオーキングは終了とする。無人の後潟駅より津軽線で蟹田駅にいき中村旅館に宿泊する。近くに宿泊できる所がないので津軽線で移動するしかないのだが、青森に戻って泊まった方が時間の都合がいいようである。


 11月5日蟹田駅から後潟駅へ、9時21分下車。下りできたなら一時間前に行動開始となったのに遅れてしまった。街道に復帰するが、5年前にはこの近くに茅葺きの古民家があったようだが見当たらない。道端には百万遍供養塔と地蔵堂が現れる。街道の左手に朱色の鳥井が綺麗な後潟神社があったのでカメラに納めておく。


 海辺がどうなっているのかを見るために海側に行ってみると防波堤があり、そのさきに砂浜がある構造になっていた。街道にもどり四戸橋を渡る。


 四戸橋の先には百万遍供養塔と眠り猫が刻まれた碑、その隣に豪華な地蔵堂が現れる。その先で再び海側を歩く。現在は防波堤が延々と続いている。往時は浜辺が街道だったともいわれているので近寄ってみると、カモメが休んでいた。防波堤工事が行き届いており往時の浜辺は既になくなっているようだ。その先に進むと蓬田宿になる。



(38青森宿) (40蓬田宿)

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