16:前沢(まえさわ)宿
・前沢宿には曲尺手が北側も南側もはっきりとその姿が保存されているのがいい
・折居から水沢宿までは街道ルートと一里塚跡とが一致せず諸説がある

 前沢---岩堰川---折居---真城一里塚---水沢 11.4km
 2010年10月9日





 街道を進んでいくと左手に白鳥神社が現れる。坂上田村麻呂により日本武尊を鎮祭した神社だとのことである。その先で一旦車道にでて進むが、街道は山裾に沿ってあったということなので、菅野金物店の前で左手の路地に入り民家の間の細い道を北に進む。


 行き止まりになったら車道に出て進み、再度左折して町切公民館の前を通過し西岩寺の前の道を進む。この辺りは丁切といわれているので宿場のはずれだったようだ。街道を進んでいくと右手に門構えと櫺子格子の建物が現れる。森田文庫と表札があるが商家なのか遺産なのか不明だ。


 その先には往時の姿を止めた曲尺手が現れる。宿場内に入り暫く進み、信号のある交差点で左折して進むと、小学校の少し手前の右手に「高野長英ゆかりの家茂木家」の標柱が現れる。ここは長栄を支援した母方の叔父の茂木家跡とのことだ。


 その先に進むと左手に前沢領主だった三沢家の表門を据えた前沢小学校が現れる。伊達家家臣だった三沢氏はこの小学校を含む山裾一帯を館としていたと案内板に記されている。また、この小学校の前には前沢水路という1630年に造られた農業用水路跡が残っている。岩堰川から取水して水田や生活用水に利用したとのことである。


 再び街道にもどり、先に進むと右手に佐藤屋旅館が現れる。その庭先には明治天皇前澤行在所の石碑がたっている。宿場内を先に進んでいくと北側の曲尺手が現れる。北と南の両側の曲尺手がそのまま保存されているのは珍しい。地元の方々は不便を承知で保存されいてるのだろうと思う。旅人としては感謝せずにはおられない。いつまでもよろしくお願いします。合掌!


 その先に進むと門構えのある太田家の大きな屋敷が現れる。この建物は、明治期に建てられた近代和風建築の民家として、岩手県の有形文化財第1号となっていると案内板に記されている。その先では櫺子格子の民家を見つつ進み前沢宿を後にする。


 暫くは何も無い車道をもくもくと歩く。やがて岩堰川を渡りその先で国道四号線と合流して進む。暫く進むと古城のY字路が現れるので左手に進むがまた国道に合流する。真城郵便局の先、水沢の塔が立っているY字路でも街道は左手に進むと間宿である折居に入いる。途中、小川沿いに左手に入る道があるがこれは古奥州街道(1658年以前の街道)であり、行き止まりになるといわれているが左折して一応見ておくことにして、社の前まで行きデジカメに納める。


 街道にもどり桜並木を先に進むと左手に牛の像が現れる。案内板がないので意味不明だ。やがて再び国道四号線に合流して進む。単調な国道歩きだが途中東北本線に近づき、そして離れるとY字路が現れるのでここを左手に進んでいく。


 暫く進んでいくと左手の民家の前に真城一里塚跡が現れる。右の一里塚は国道工事で消滅している。案内板によるならば古奥州街道は折居町から西側の高台を通って水沢公園の愛宕参道を通過していたが、1658年に小山崎から妙法寺、七軒小路にぬけるルートに切り替えられたと絵図付で記されている。絵図によるとこの先にある妙法寺を左に巻いていくのが往時の街道のようである(この解説によるならばガイドブックは古奥州街道を示しているようだ)。


 一里塚を跡にして暫く進み、左手の道に入っていくのだがその道ははっきりしない。なお、東上野町2丁目の角には、奥州街道の道標があるのでそれを確認してみた。水沢宿を背にして見ると、奥州街道はそこから左手に進み、その先のY字路で寛延四年の奉納石を見つつ右手に進み妙法寺の前を通過して進むのであるが、その先がどのように県道226号につながって真城一里塚へとつがっていくのかは、不明であった。武家住宅資料館の絵図を見ても奥州街道を示す道は、七軒丁から宿場内に入ることは書かれていたがその前のことは書かれていない。資料館の方に聞いたがわからないとのことだった。


  私なりに推測すると、江戸時代中期の街道は真城一里塚をあとにして進み、水沢ガスのスタンドの手前で左折して進み、右折、左折、右折して妙法寺につづく道に出、妙法寺の前を通過し、道標の所で右折して石川病院と睦公園の間の道を進み旧七軒丁の所で県道397号へ出て左折して進み、横町へと入っていったようである。あくまでも私見ですが。



(15山目宿) (17水沢宿)

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