04:吉岡(よしおか)宿
・本陣跡を示す標識はないがコンビニの所がそうだといわれており旧家や追分がある
・昌源寺坂から戸口配水場までの失われた街道の全貌を知り一部を歩くことかできる

 吉岡---昌源寺---もみじ広場---西伊賀---三本木 14.6km
 2010年5月15日、16日





 交差点を曲がると、右手に九品寺が現れる。山門入口の右手の左端の石碑は往時には交差点付近にあったもので、「右せんだい道 左まつしま道」と刻まれている道標も兼ねた地蔵菩薩であるとのことだ。


 宿場に入る曲尺手を通過する上町となり、櫺子格子の家が現れ街道筋の風情が感じられる。暫く進むと右手にホテル風の建物の遠藤旅館が現れる。17時30分、今日泊まる旅籠に到着だ。


 翌日、9時に旅籠を出発して三本木宿を目指す。人気のない宿場内を進むと右手にセブンイレブンが現れる。ここが本陣跡なのでシャッターを押したが、本陣跡であることを示すものが何もないのが残念だ。先に進むと突き当たりとなり、右折すると中町に入る。左手に蔵造りの店が現れる。その先、上州屋の隣には門構えの旧家が現れる。


 少しもどって、右手に進むと吉岡八幡神社が現れる。参道右手には「芭蕉墳」という句碑があり、「俳諧にせん 藤乃實は 花の阿と」と刻まれている。その奥には朱色が鮮やかな山門があり、その先に本殿がある。大きな神社だがその由緒はわからない。街道にもどり、突き当たり左折し下町に進む。左手に門柱に「酒類醸造所」の看板が架かった早坂家が現れる。


 その先に進むと街道は出羽街道との追分が現れる。「奥州街道 出羽海道中山越え」と刻まれており、その下には解説が書かれている。その右手にある石碑が追分石なのではと見ると上半分が欠損しており「仁の墓」と刻まれているので違うようだ。街道は追分で右手に進む。すると左手に沼が現れ、そのほとりに八重桜が満開となっている。坂をおりていくとお婆さんから「いい天気ですね」と声を掛けられたので「そうですね」返した。とっさに言葉が浮かばない自分だった。


 沼のほとりを道なりに左に回りこむと右手にカフェバー風が現れる。その手前に手すりのある下り坂の小道をおりて小川沿いにいくのが街道だったと思われる。すると国道にでるが、往時の街道はそのまま小川沿いに進み昌源寺にむかっていたと思われる。しかし、今は水田地帯となっているので小川沿いには進めないので国道で左折して舗装された道を昌源寺に向かうことにする。


 水田地帯中央の川を渡ったところで、右手の田圃の中を昌源寺にむかって進む農道が見え、往時の街道ではないかと思えたがそのまま進んだ。先の民家の手前で右折する道があったので田圃の中の農道に出てみた。水田は区画整理されているが多分に街道のように思える雰囲気だ。農道を進み、昌源寺前にでたところで昌源寺の山門をカメラに納めて昌源寺坂に進む。


 昌源寺坂前には「奥州街道の歴史にふるれ散策路の整備」という案内板がたっている。それによるならば、ここからもみじ広場までの山間部の奥州街道は工業団地の造成工事にともなって喪失してしまったと説明してある。そして代わりに散策路と公園をつくりましたと地図つきで説明されている。往時の街道がどのように続いていたのか、大衡一里塚がとこにあったのかがわかるのはいいが、鬱蒼とした街道が喪失してしまったのはもったいないと思った。しかし、散策路が整備されているので、先人たちのように大衡村役場の方までもどって迂回する必要がないのは助かったと喜んでしまった。


 往時なら目の前に昌源寺坂が真っ直ぐ伸びていたようだが、今は右折して進み工業団地の右端に出てから、工業団地の縁を北西に進むことになる。丁度、昌源寺坂の上あたりに来た時、下を見ると吉岡宿が農道ごしに一望できた。工業団地はできたばかりで広々としていた。


 中央公園に来ると大衡一里塚の写真と地図の案内板、街道脇にあった馬頭観世音の石仏が現れる。しばし大衡一里塚の発掘調査の資料に見入りカメラに納める。工業団地内を街道のように横断するかのような道があったが、地図には記載されてないものなので不安があり工事用道路だろうと見て進入しないことにした。散策路は公園を出ると出来たばかりの村道大衡落合線に突き当たるので右折して進み、もみじ広場へと向かう。


 村道から少し左に入ったもみじ広場は高い鉄塔が目印だ。大衡村の方を振り返ると雪をかぶった山々が遠くに見える。街道は階段を登っていくのだが、その手前に街道の案内板がある。左手にある石碑は、なぜここにあるのかと思うものであり、街道とは関係ないようだ。街道は整備されており多少草が繁っているが歩き易いものだった。やがて街道は戸口配水場の手前の車道に出るのだが、そこにはロープが張ってあって一応進入禁止(?)となっている。たぶん車の進入禁止なのだろうが、なんとなく違反しているかのような気がした。以上で今日の一番の難所だった消えた街道の探索をやりとおし、何とか街道にそって通過できたので一安心だ。


 車道に出た所で右折して進み、261号線と合流し寺田で十字路手前を斜めに進み県道16号線と合流する。その先の左手のバス待合所の裏に一里塚の案内板が現れる。そこには一里塚跡を示す「いちょうの古木」があると記されているので見渡したがわからなかった。その案内板の傍の畑で作業していた方がいたので「いちょうの古木」を尋ねてみたら親切に教えてくれた。


 説明によると、その方の家に入る坂道を登った所の右手の奥にその「いちょうの古木」があり、その方の父親が、街道の右手に県道が作られた時に一里塚が壊されたので一里塚跡としていちょうの木を植えたのだとのことである。その後、街道だった土地は売られて整地され家がたつことにより土手の上のいちょうの木として現在は残っているとのことだった。坂道を登り案内された「いちょうの古木」をカメラに納めた。バス亭側から見ると桜の木などに隠れてその古木はまったく見えない構成となっているので、このおじさんの説明はたいへん貴重だった。「いちょうの古木」の新たな発見ができたことに感謝し、お礼をいって一里塚を後にする。


 暫く進むと左手に須岐神社が現れる。1109年に地頭児玉弥太郎が起こした古社とのことだ。街道は駒場簡易郵便局の所で左にカーブして進み、右手に明治天皇の小休止跡の碑が現れる。その先にいくと緩い右カーブとなるが、左手に消えた案内板がたち小道が現れる。これが街道であるだろうと思い進んでいくと、「その先は高速道路で寸断され行き止まりになっている」と傍で畑仕事をしていたお兄さんが教えてくれた。お礼を行って車道にもどって進む。


 高速道路下を通過した先で左折し、坂道を昇り降りして進む。途中の西伊賀地区には馬頭観世音の石仏などが左手にある。坂道を登り、高速道路上を橋で渡り右折して高速道路の左手を進むことになる。暫く進むと、左にカーブして高速道路から離れる辺りに一里塚跡があったのだが、もっと手前にあるのもだと思っていたので「何かあるな?」と目にはとまったが無視してしまった。残念!


 街道は再び高速道路上を渡り左折して道なりに進む。右からの道と合流する地点の左手に、「明治天皇鑾輿(らんよ)航渡聖蹟」という仰々しい石碑が現れる。明治天皇が巡幸で来たおりに鳴瀬川を船で渡ったことを示すものだそうだが、なにもこんな山の中にたてなくてと呆れてしまった。


 眼下に新町の集落を見ながら坂を下り、国道四号線を横断して進むと右手に大きな大豆坂地蔵尊が現れる。1765年に火焙りで処刑された人を弔うために仙台の広瀬川からとった石で彫られたものとのことだ。この地蔵尊の右手には道の駅があるので、そこでランチタイムをとることにする。街道では観光客にまったく合わなかったが、道の駅は大勢の観光客で賑やかだった。天ぷら蕎麦を食べて一休みする。14時に道の駅を出て国道のガード下を通過するとその先は三本木宿だ。



(03冨谷宿) (05三本木宿)

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