29:三戸(さんのへ)宿
・黄金橋や代官所跡などの往時の遺跡とそれ以前の戦国時代の三戸南部氏の城跡がある
・高山、浅水宿、鞍越坂の峠越えは距離が長いが道は整備されていて歩きやすい

 三戸---聖寿寺---高山---浅水---鳥内沢一里塚---五戸 19.7km
 2014年11月8日





 黄色い壁の理容所が出迎える同心町に入る。曲尺手の跡の様なカーブを通過する。宿場内を進んで行くと左手にスーパーが現れる。金田一宿ではコンビニがないので調達できなかった昼飯やお菓子を買う。スーパーなので、今回はチョット奮発して海鮮太巻きにした。宿場内には街道筋の面影はほとんど無いようだ。八日町から直進すると城跡に進むことになるので、左折して二日町に進む。城跡を見学していると暗くなる前に五戸に着けないと判断したからだ。


 途中で右手の路地裏に入ってNTTの横に行くと「三戸代官所跡・三戸県御役所跡」の標柱がある。三戸南部氏が二戸へ移り、その後盛岡へと移ったこともあり1633年に城は廃城になった。代官所は城にかわる三戸支配の中心地だったのだろう。二日町の途中には曲尺手があったのか道が筋違いになっている。ここから城跡に行く道があるのではと地元の方に聞いたところ、八日町の所までもどるしかないと言われてあきらめる。


 街道は宿場の外れで黄金橋を渡る。その橋の名は第12代南部政行公が京都在留中に天皇から許しを得て、城下に金ばりの擬宝珠で飾った都風の橋を架けたことに由来するという。当時の擬宝珠は温故館に保存されているとのことだ。その先に進むと左手に法泉寺が現れる。ここの山門は南部藩が盛岡に移ったとき三戸城の搦手門を移築したものだ。


 街道を進んでいくと左にカーブし、その先で交差点を渡る。左手には「APPLE DOME」があり漫画家馬場のぼるさんが描いた猫の像がある。その先暫く進むとは馬暦神社が現れ、その境内に唐馬の碑がある。八代将軍徳川吉宗に献上されたペルシア(春砂)馬が盛岡藩に下付され、この馬を種馬として馬の改良を図ったが、9歳で死んでしまったのでこれを悼み1743年に碑を建て供養したとのことである。


 国道四号線バイパスの下を潜って街道を進んでいくとやがて馬淵川沿いの登り坂となる。馬場地区を通過して下っていくと丁字路の突き当たりに天命の飢饉の供養塔が現れる。ここで右折して小向橋を渡り左折する。その角でリンゴを積んだ軽トラックのおじさんが「奥州街道を歩いているのかね」と声をかけてきた。「そうです」と答えると、「どこからきたの」と質問してくる。「神奈川県から」というと「へえ?、大変だね、気をつけて」といって分かれていった。おじさんはどういう興味で話しかけてきたのか分からないが何となくうれしかった。


 街道は丁字路に突き当たり右折するのだが、ここで南部利康霊屋を見るために左折して進む。道の左手には南部氏初代の南部光行が築き三戸南部氏の本拠地であった聖寿寺館跡が見えたが、標柱しかないのでカメラに納めなかった。残念。


 道なりに進むと奥に霊屋が見えるが、予約していないと入れないと門戸に断り書きがある。盛岡藩初代藩主南部利直の四男、南部利康は将来を期待されていたが24歳で病死。これを憐れんだ利直により豪華絢爛たる霊屋が建てられたのであり、国指定重要文化財になっている。その隣には三光寺があり、境内の大きな公孫樹が目を引く。


 先程の丁字路にもどり、暫く進むと街道は左手に折れる。道は草道となりリンゴ畑の横を通過して進む。奥州街道の標柱が立っているところで遅まきながらの昼飯にする。三戸のスーバーで買った海鮮太巻きから食べる。やっぱりおにぎりよりはおいしいな?とひとりごと。


 食事がおわったらすぐに出発する。暫く進むと右手に「木戸口跡」の標柱が現れる。「木戸口」とは聖寿寺館にかかわるものなのだろうか。街道はその先で県道に出て左折。暫く県道を進むと右手に奥州街道の道標が現れるので、その山道に入る。熊よけの鈴を鳴らしながら山道を登っていく。かなり急勾配の坂なのでハアハアと息を切らしながら高山を目指して進む。


 右からの道と合流し、その先では右に分岐して進むとやがて高山一里塚が現れる。左の塚はわかるが、右の塚はなだらかで分かりにくい。標柱があるので見過ごさずにすんだ。春や夏だと草が繁っていて見つけにくいだろうなと思える。


 街道は美しい紅葉で彩られている。この時期のてくてく旅は最高だ。がしかし、枯れ枝を踏んだところ後方でガサガサと物音が。ギクッとして振り向くとだれもいなかった。「ビックリした!」と独り言。熊との遭遇のスリルとも隣あわせなので緊張する。暫く進むと左手に十和田碑が現れる、が私は標柱がそれだと思ってカメラに納めたが、実はその後ろの石碑がそれなのだそうで紛らわしい。


 尾根道の街道を進んでいくと右手に登っていく道がありその先に高山頂上の展望台がある。しかし、その道が左手の松の倒木で塞がれている。かろうじて一人通れるくらいの隙間を通って展望台の広場に出ると明治天皇御駐蹕所の記念碑があった。頂上は海抜273mとあった。展望台は木製なので不安もあったが登ってみた。台上には四方になにが見えるかのプレートが設置されている。ところが周りの木々が育ちすぎてどこも見えなくなっているではないか。展望できない展望台、これでは何の価値もない場所になっている。残念!


 高山を後にして下っていくと水無坂の標柱とその先に東家がある。道は整備されていて勾配も緩いので歩きやすい。「歴史の道百選」にも選ばれている道だそうで、ハイキンクで再び歩きたい道だ。道には轍も残っているので車も登ってきているようだ。更に下っていくと右手に水梨清水が現れる。澄んだ湧き水が流れていたが有料の消毒水になれてしまっている体なので心配で飲めなかった。暫く進むと左手に並木の松という街道の名残の松が1本たっている。浅水まで1.4kmだ。


 急坂を下っていくと視界が開け浅水の集落が現れる。時間は16時丁度だ。街道は丁字路を右折して集落の中を進む。左手に八幡宮の朱塗りの鳥居が現れる。屋根もついていて随分と派手な鳥居だ。その先の左手には旧家の長い塀が登場する。橋を渡った先の小泉商店の隅には「明治天皇御休所跡」の標柱がある。


 浅水は間の宿で今は泊まる宿がないので五戸へ行くしかない。集落の端に来ると民家の並びの中の左手に奥州街道の道標と街道が現れる。左折して坂道を進んでいく。暫く進むと右手に東家が現れ「十峰庵」の標柱が立っている。だんだんと夜のとばりが降りてきている。


 その先に進むと街道は山道となる。熊除けの鈴を鳴らしてすすむ。薄暗くなったがまだまだ見通しが効く。とにかく急いで歩くが山はなかなか深い。右手に鞍越坂の標柱が現れる。峠を越えて下っていくと、遠くからラジオの音が聞こえる。近くに民家でもあるのかなと歩いていくと、なんと人が登って来た。互いに「こんばんわ」と挨拶したが、「こんな時間に」と互いに思っただろうなと思いつつ進む。山を抜け平坦な道にでると「鳥内清水」の標識が現れる。だいぶ暗くなってきた。


 水田の中の街道を進むとY字路が現れ、街道は右手の坂道を登っていく。暫く進むと右手に一里塚の標柱が現れる。鳥内沢一里塚だが、暗くて左右とも様子が分からない。とにかくカメラに納めることはしたが・・・・。うっすらとしか見えない中、先に進むと右手に「明治天皇八戸疑景天覧聖蹟」の石碑と案内板がリンゴ畑の隅に現れる。明治9年7月の東北巡幸に際して、八戸が巡幸のルートからはずれたので、八戸の人達はここで八戸のジオラマを作って天皇に見せたと解説されている。


 緩い坂道を下っていくとやがて左手からの道と合流する地点に松の木が立ち、その下に槍沢への追分石のある舗装道路に出る。周りには民家があるが月も星も出ていないので薄暗く、地図との対応がとれないので焦った。電子地図を取り出して見ると現在位置が出てきたので一安心。道なりに進み国道四号線との立体交差を通過し、その先で左へ分岐するとその先は五戸宿だ、と思ってY字路に注意していたが見失ってしまった。暗くなっているのでとりあえず旅館さくら屋入る。17時50分到着。昨日も暗くなっての到着だったが、今日は山の中で日が暮れてしまった。覚悟はしていたが、見知らぬ土地でどうなることかと不安がいっぱいだった。風呂につかり、ビールとおいしい食事、なにはともあれホッとした。



(28金田一宿) (30五戸宿)

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