21:石鳥谷(いしどりや)宿
・宿場内は人通りも少なく、昔の面影は一里塚跡があるのみだ
・五郎沼と樋爪館は藤原氏と源氏との歴史に残る争いの舞台だった

 石鳥谷---五郎沼---日詰郡山 12.6km
 2013年11月2日





 暫く進み小川を渡った先の右手に石鳥谷肥料相談所跡の案内板(白い裏側)が現れる。以前は木柱だけだった。「昭和3年3月15日から一週間、宮沢賢治先生による肥料相談所が開設されました」とある。賢治はここから眺めた一里塚の情景を『春と修羅』第三集に書いているとのことである。


 賢治がいっていたように、その斜め向かいには好地一里塚跡がある。三叉美容室の隣りにあり、江戸から133番目の塚であると案内板に解説されている。先に進むと岩手銀行の横に、七福神という銘柄の酒を造っていた酒造店井筒屋跡が現れる。宿場内は人通りも少なく、街道筋の面影もないのでどこが往時の宿場だったのか不明だ。現在は文化タクシーがある交差点あたりが繁華街のようだが。


 街道を先に進んでいくと左手に石鳥谷の開発に尽力した菊池数馬の墓の案内板が現れる。階段を登って墓を見てみようとその奥に入っていくと、その奥に太陽電池パネルがズラッと並んでいるではないか。「ええ~」と太陽光発電基地が突然現れてビックリし、菊地の墓は吹っ飛んでしまった。街道を先に進んでいくとその先に境塚の案内板が現れる。ここには好地村とこの先の犬淵村とが境界を定めた境塚があったとのことだが、どこに実在しているのかよくわからなかった。道路の右手に塚のようなものがあったが?


 街道はその先で国道四号線と合流する。そこから400m位進み左折し、そして300m位進むと丁字路となり古街道にでる。そこには鎌倉街道跡と木柱が立っている。そこを北に進むとやがて区画整理された田圃に突き当たり古街道は消失している。往時には田圃を斜めに横断して街道と接続していたのだがそれらは跡形もなく消えている。残念。


 国道を北へと進み、滝名川を越した先の左手にある高橋家の付近に陰沼一里塚があったというがなんの片鱗もみつからない。暫く進むとやがて五郎沼が左手に現れる。沼の対岸に回り込んで見ると「樋爪館周辺歴史絵図」「五郎沼の蓮のいわれ」「歴史のロマン香る樋爪館」という3つの案内板があり、藤原清衡の四男清綱がここに派遣され、その子俊衡、季衡らが樋爪館を構えて周辺を支配していたと解説されている。


 絵図をみると沼は今の倍以上あり広大な屋敷となっていて、神社裏の小学校付近に樋爪館があったようである。また、隣にある蓮沼の蓮は800年も前の藤原泰衡の首桶に入っていた蓮の実を開花させたものから株分けしたものである、と解説されている。これらの解説から、静かな五郎沼が実は陸奥の支配をめぐって戦った藤原氏と源頼朝とのダイナミックな争いの舞台の一つだったのだと思いが馳せる。


 沼の先に進むと薬師神社がある。当初は薬師堂という仏教のお堂だったが今は神社となり神道に変わっている。石碑群のなかに1323年の不動明王絵像碑があるというがどれかはわからなかった。


 薬師神社を後にして街道を進む。暫く進んでいくと国道が左にカーブするが、街道はそのまま直進していく。暫く進むと街道も左にカーブする手前で、右手に志賀理和気神社の鳥居が現れる。鳥居を抜けたその先の左手に南面の桜がある。案内板には藤原某という都人が地元の娘をたぶらかして遊び゜都に帰ったら音沙汰なしという悲恋?に絡んだ桜花の話がつづられているがよく聞く話なので興味がわかなかった。


 参道から境内に入ると大きな志賀理和気神社が現れる。坂上田村麻呂が陸奥開拓の守護神として勧請した古社と解説されている。人気はまったくなくひっそりしている。境内にあるはずの別名赤石神社と言われる語源となった赤石をうっかりして見損なってしまった。その昔、この地を治めていた斯波詮直が、北上川を遊覧中に川底に輝く赤紫の大石を見て、「けう(今日)よりは 紫波(しわ)と名づけんこの川の 石にうつ波紫に似て」と詠んだ。それまで子波、斯波、志和などと呼ばれていたこの地は以後「紫波」と定まったとのことてある。


 神社からもどる途中で右手へいく小道を進んでいくと北上川の河原にでる。その河岸の中程に、郡山河岸跡が現れる。小舟渡(こぶなと)とよばれる船着場があり、「北上川の舟運と郡山河岸」と題した小さな案内板ある。盛岡藩では盛岡新山河岸を起点とし郡山、花巻、黒沢尻に河港を開いて舟運の充実を図った。郡山河岸からは米・大豆が江戸に運ばれ、上方や江戸で仕入れた古着・反物・陶器・書籍などが送られてきた、と解説されている。日もくれてきたので急いで運動公園を抜けて街道に戻り、先に進むと交差点が現れる。直進して先に進むとその先は日詰郡山宿だ。



(20花巻宿) (22日詰郡山宿)

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