02:品川宿(しながわ)
・天保14年の人口6890人、家数1561軒、旅籠111軒、本陣2軒
・品川宿の遊廓は「みなみ」と称され、北の吉原と拮抗するほどの規模だった

 品川---東大井---立会川---蒲田---川崎 9.8km
 2002年7月6日





 坂道を下った左手に、当時有名だった大きな旅籠、土蔵相模の跡を示す看板がある。(2004年3月に再度通ったら、なんと左手のファミリーマートのあるマンションの前に「土蔵相模跡」という掲示があった。以前はこの付近にということだったが、いろいろ地元では調査がされていたことに感謝。)高杉晋作や久坂玄瑞らがここに集い、御殿山のイギリス公使館の焼き討ちに行ったとのことである。さしずめ今ならテロリストと呼ばれるであろうけれども、まさしく勝てば官軍だと思った。当時は北国の吉原、南国の品川といわれるほど品川宿は有名な遊廓だったそうで、桜の名所・御殿山、潮干狩りの袖ケ浦などを周辺にもち江戸の行楽地だったとのことである。何となくそのような町並みがあるなと以前感じたことがあった。


 さらに進んでいくと、左手に日本橋より二里の道標の立つ品海公園がある。その右手には天保の飢饉のときに餓死した500人余の流民を葬った法禅寺があり、境内には供養の流民業塚碑がある。


 その先、左手に品川宿本陣跡がある。現在は聖跡公園となっている。品川宿の初期には南北品川宿のそれぞれに本陣があったが、中期以降は北品川だけになったとのことである。


 北品川商店街を進んでいくと目黒川に架かっ た品川橋にでる。橋の右手先にはこんもりした森のなかに荏原神社がある。さらに進んでいくと右手に大きな門の天妙国寺がある。ここの境内の木陰で昼飯を取ることにした。境内は広く、梵鐘のある屋根の下で食べることにした。そこには先客がいて昼寝中だったが、反対側に陣取っておにぎりを頬うばった。炎天下、木陰はありがたく、お茶がうまい。天妙国寺に感謝・合掌!


 品川宿をあとに進んでいくと、鮫洲商店街をぬけ次の立会川商店街を過ぎた先に浜川橋という立会川に架かった橋に出る。この橋はまたの名を「涙橋」といったそうであるが、その由来が橋の袂の左手に記されている。この先にある鈴ヶ森刑場で処刑される罪人の親族たちが密かにこの橋まで見送りにきて、ここで涙をながして別れたとのことからこのような名が付いたとのことである。罪人になったとはいえ親族にはいろいろな感慨があったことに思いを馳せ、ついほろりとなってしまう・・・。


 そして、この橋の先にあるのが、その鈴ヶ森刑場跡と大経寺である。火あぶりやはりつけで罪人をくくりつけた柱の台座となった石の台があり、丸橋忠弥や八百屋お七らが処刑されたと説明されている。ここで火あぶりの刑が行われたのかと思うとなんともいえない感情が沸いてくる。刑場を後にして進むと、再び第一京浜と合流するが競艇場の先で左手の道に入り暫し車の騒音も少し落ちる。その先の大森警察署のところでまた第一京浜と合流する。ここからは騒音と直射日光にさらされて辛い、しかしガマン、ガマン。


 先に進むと右手に梅屋敷公園が現れる。公園に立ち寄ってトイレ、そして公園内の池の傍にある木陰のベンチで暫し休憩。梅屋敷は、和中散という常備薬を販売していた山本家が屋敷内に梅を植え茶屋をひらいていた跡とのことである。 休憩も取ったので、さあ川崎まで第一京浜を突き進もう!と出発した。あまり見るものもなく、炎天下の第一京浜をもくもくと歩いた。多摩川に出る手前、左手に六郷神社があったがそのまま通過して進む。しばらくいって第一京浜とわかれ左の側道を進むと多摩川を渡る橋にでる。おお!川向こうが川崎宿だ。



(01日本橋) (03川崎宿)

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