39:岡崎宿(おかざき)
・天保14年の人口6494人、家数1565軒、旅籠112軒、本陣3軒
・徳川家康は1542年12月にここ岡崎城で産声をあげ、人質となった後に、岡崎城にもどり独立した
・江戸幕府は家康誕生の地でもあるので、本多康紀など譜代大名を配置していた

 岡崎---矢作橋---宇頭茶屋町---来迎寺町---池鯉鮒 14.9km
 2003年4月29日、30日、2012年1月7日





 冠木門に囲まれた大きな岡崎二十七曲碑の前に立つ。岡崎二十七曲りは、家康が関東に移った後、1590年に城主となった田中吉政が、乙川の南を通っていた街道を北側の城下町通過に変え、それと共に城の防衛上「二十七曲」の屈折を造ったとのことである。掛川宿の「七曲り」をはるかに凌ぐことに驚いた。さぞかし昔の人は難儀しただろうなと、自分の苦労をそこに重ねて閉口した。まずは右に曲がって進む。ガイドブックの地図を見つつ、道路標識を見落とさないように歩く。二つめの角で左折して進み、200m位先で右折、次の角を左折・・・・というように、地図と道標と風景を見くらべつつ歩くので大変だ。宿場内の大通りを500m位歩き、中程まで来たところで切り上げ、予約してある旅籠に引き上げることにした。


 旅籠(ビジネスホテルいとや)は乙川を渡った名鉄東岡崎駅の近くだった。午後6時過ぎに到着。女将さんの話では、チヨット前にも東海道を歩いている夫婦の方が泊まったとのことだった。二川宿で会った方たちかななどと思いだしつつ、ビールと夕飯を堪能した。


 2012年1月7日、本陣跡を探して再び岡崎宿を尋ねた。伝馬通3丁目から1丁目へ向かって進むと交差点手前、右手の花一生花店の所が服部家東本陣跡である。その対角線上にある備前屋横壁には思いがけない往時の家並みの絵図があり、本陣跡の探索に参考にした。それによると往時に本陣は3軒あったと記されている。


 西に向かって宿場内を進んでいく。通りには石で出来た人形などで街道にあったいろいろ機能を解説している。左手に永田屋という旧家の肉屋が現れる。その先に進み交差点角のミニストップの所が中根家西本陣跡である。通りを渡り反対側にいくと角に二十七曲がりの絵図があり、本陣跡が示されている。西本陣跡は映画館の所とあるが映画館はミニストップに変わってしまっているのだが・・・・。(追記完)


 4月30日、朝起きたら雨が降っていた。天気予報では朝方雨とのことなのでできるだけ遅く出発することにした。だいぶ小雨になっていたが止んではいない。午前10時、傘をさして出発した。昨日の大通りまでもどり、再び二十七曲に挑戦だ。途中本陣跡を通過したが石碑を見落とした。籠田公園内を通過し、地図と道標・風景を見比べつつ左折右折を繰り返し、柿田橋たもとにでる。左手には材木町の石碑がある。三清橋を渡り左折右折を繰り返し、国道一号線を歩道橋で横断し南下すると二十七曲は終了だ。いつしか雨も止んでいた。


 このまま街道を進むと岡崎城を見落としてしまうので、街道から外れて左折し岡崎城へ入る橋を渡る。季節がら観光客が大勢きていた。家康が誕生した時に使用した産湯の井戸、家康の銅像、復元された天守閣、などがある。


 また、城横の乙川の川端には船着場があったとのことで、その石碑がある。「五万石でも岡崎さまは、お城下まで船が着く」と唄われていたそうである。竹千代橋の手前には五万石ふじがあり、丁度時期がよく満開となった藤の花を見ることができた。


 再び東海道にもどって進むと、愛知環状鉄道の高架下を通過した先に八丁味噌の工場が左右にある。右手の宮内庁御用達のみやげ物店をのぞいてインスタント八丁味噌汁を記念に買った。ここで初めて赤味噌の塩辛いこの地方の味噌を八丁味噌ということを知った。左右に味噌蔵の並ぶ街道を進み、矢作川の手前で右折し、国道一号線の矢作橋をわたる。渡った先でこの橋を振り返った構図は、広重の岡崎宿の絵の構図となる。当時の橋は374mもあり街道一の長い橋だったそうで、工事は幕府によっておこなわれ天下普請といわれたとのことである。橋の右手には蜂須賀小六と日吉丸とがこの橋の上で出会ったとのことから、二人の像がある。


 街道は、橋のたもとで国道一号線と分かれて右手の道に入る。しばらく進むと、右手に源義経を慕って乙川に身を投げた地元長者の娘・浄瑠璃姫の墓のある誓願寺が現れる。その先で街道は、国道一号線と合流、約2km、国道の騒音と共に進む。柿崎町の先のY字路を右手に進み国道一号線と分かれる。尾崎町に入ると松並木が現れ、街道の面影を楽しませてくれる。しばらく進むと、熊野神社現れ、その横に予科練の碑が立っていた。今は畑や住宅地となっているが、戦争中はここに第一岡崎航空隊があり、霞ヶ浦の予科練につづくものであったとの解説がある。隣の熊野神社の境内で、トイレ休憩と昼食にすることにした。おにぎりを頬張りつつ広い境内を見渡したが、誰もおらず閑散としていた。天気もパッとしないが、雨が上がっただけでもお天とうさまに感謝だ。


 さて、再び街道を進んでいくと左手に二本の松の木が立ち、「三河路に昔をしのぶ夫婦松」と立て札が立っていた。ところがそれぞれの松には助さん、格さんと札が架けられているのだ。おいおい、それはないだろう!と地元の方に言いたくなった。


 その先には、貧しい村人の為に助郷役免除を願い出て死罪となった庄屋・柴田助太夫の屋敷跡でもある永安寺があり、松の幹が横に延びる樹齢300年の雲竜の松が現存している。ところがデジカメは最初のシャッターだけが動作し、その後は電池切れになってしまった。大失敗だ!充電器もないし予備の電池もない。呆然として、街道を歩くることになった。どこかでインスタントカメラ“写るんです”でも買うしかないと諦める。(後から推測したことだが、この日は雨降りで暗かったためフラシュが毎回自動的に作動しており、それで予想外に電池を消費したようだ。やはり予備電池は必須だと反省) 街道をしばらく進むと明治用水開渠記念碑が現れたがカメラがないのでただ見るだけで通過する。焦る気持ちで歩いていると生協のスパーがあった。早速“写るんです”を探し出して購入、助かった。


 猿渡川を渡り知立市に入る。来迎寺町の一里塚跡が左手に現れたので、インスタントカメラのシャッターを押した。続いて左手奥に入り、泉蔵寺内にあるという赤穂浪士・吉田忠左衛門夫妻の墓を探したが見つからない。諦めて街道にもどると、何と墓は寺の境内ではなく、寺からの帰り道に面した住宅地横にあった。ガイドブックがミスっているのだ。再び街道にもどり、進んでいくと池鯉鮒の松並木・並木八丁が現れる。


 松並木の途中の左手に馬の像と広重の池鯉府・馬市の掲示板が現れる。その先には馬市句碑がある。牛田町のこの当たりは以前は野原であり、ここで馬市が古来から行われていたとのことだ。松並木を抜けた所で街道は国道一号線と交差する、がその右手に家根がとんがったメルヘンチックな明るい建物が建っている。何かなとよく見たら結婚式場だった。街道の面影はぶっ飛んでしまうなと思いつつ、国道をわたる地下道を潜って出ると、その先は池鯉鮒宿だ。



(38藤川宿) (40池鯉鮒宿)

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