49:坂下宿(さかのした)
・天保14年の人口564人、家数153軒、旅籠48軒、本陣3軒
・1650年9月2日の大洪水で鈴鹿峠のすぐ下にあった宿場はここごとく被害をうけ、現在地に移転した
・1806年には火災で本陣、脇本陣などが焼け、代官所の貸付金などで何とか復興した
坂下---鈴鹿峠---山中---猪鼻---土山 13.7km
2003年10月4日、2004年4月16日
休憩の後、街道をしばらく進んでいくと、前方左手にバス停がありその先に電話ボックスがあったので、これは都合がいいと今夜宿泊予定の水口宿のホテルに宿泊の予約を入れる。予約ができたので一安心。バス停を見ると坂下宿と書いてある。殺風景なので実際の坂下宿はもっと先なのだろうと更に進んでいく。橋の右手に先程の若いウオーカーが立ってビールを飲んでいた。こんな炎天下でビールなど飲んで先まで歩けるのかなと人の心配などをしつつ追い越して進む。やがて右手に老人夫婦と思われる奇怪な石像が現れる。その先に大通りが現れ、岩屋十一面観世音菩薩が右手にあった。「えっ、さっき通過した所が坂下宿だったの?え?それはないよ!」と独り言をいいつつ、がっくり。今さらあそこまでもどる(600m位)のがいやになり、何もないのが坂下宿なのだ!と思って諦めることにする。 |
岩屋観音の扉を開けて中に入って見ると、左手に滝が流れ岩の上にはあまり古くないお堂があった。葛飾北斎の諸国瀧廻りにも登場するところなのだが、あまり霊験あらたかな感じはしないところだった。 |
岩屋観音を出たすぐ先のところを右に入っていくのが旧街道であるとガイドブックにあるので急坂の狭い道に入っていく。鬱蒼とした山道でチョット狭いし、急な登り下りがある道だった。しばらく進むとやがて国道に降りるが、そこは国道から片山神社にはいる道の手前だった。すぐに片山神社の石碑のある道に入り林の中を進んでいくと木立の中に石垣が現れる。もともとの坂下宿はこの付近にあったことを示す跡だそうで、1650年の大洪水で宿場は被害を被り今の場所に移転したとのことである。その先には片山神社の鳥居が現れる。左端には鈴鹿流薙刀発祥の地の石碑が立つ。 |
神社の前を通過して右手に進みつづら折りの急坂道を登っていくと国道に出る。そこを横断して階段を登って進むとその先に芭蕉の句碑「ほっしんの初にこゆる鈴鹿山」が現れる。その先には馬の水のみ鉢がある。薄くらい木立の中を登っていくとやがて平坦な道となりその先に明るい街道が続いている。ここが鈴鹿峠なのとあっけにとられてしまう。 |
峠の左手の道に入り、ずっと昔に田村神社があったという田村神社旧跡をみる。さらに木立の中を進み、むかし山賊が岩の鏡を利用して通過する旅人を見張って襲ったといわれる鏡岩をみる。確かに鏡のように光っている部分もあるが旅人をみることは出来ないと思った。なぜなら光っている部分は上を向いているから。ただし下の街道を見張るにはいい場所だったのだろう。だいぶ昔から鈴鹿峠は山賊が横行することでも有名で、鎌倉中期には女盗賊もいたとのことだ。ところでこの鏡岩から元の街道にもどろうとした時、道がはっきりしないのでやや左に進んでしまいあぶなく彷徨いそうになった。もとにもどって右斜めに進んで事なきを得たが木立の中なので左右の風景が似ていて迷い安い所だ。 |
街道にもどり明るい茶畑に出たところで昼食にする。是より京まで17里の道標が立っている。鈴鹿峠越えは箱根ほど難所ではないなと、街道をふりかえりつつ調達してきたおにぎりを頬張りお茶を飲む。出発しようとしているとハイキングの夫婦の方が横道を登ってきたので、道標の前で写真をとってもらった。秋の日差しを浴びて茶畑をしばらく進むと、右手におおきな万人講常夜灯が現れる。高さは5.4mもあり、270年前に甲賀谷の人々3000人の奉仕で造られた。伊勢への航海と旅の安全を祈願して建てられたとのことである。それもあって山賊が出なくなったかどうかは不明だが。常夜灯の横にはトイレもあり休憩にはいい場所だが、すでに休憩してしまったのでトイレにだけ寄っていく。 |
常夜灯を後にしてしばらく進むと国道一号線と合流する。ここからは爆走するトラックの音を聞きながら国道一号線をだらだらと下っていく。坂下宿側に比べ土山宿側は意外となだらかな坂道であることに地形の不思議を実感しつつ。さらに、この地が忍者で有名な甲賀であることに親しみと興味が沸いてくる。しかし中山の集落で国道から分かれて右手の街道を進んでいくと突如数十mもの上を第二名神高速道路が走っているのが見える。これぞ現代という感じだがその高さに唖然とする。 |
高速道路の下を通過したその先で国道一号線を横断するが、その手前右手に一里塚があったことを示す山中一里塚公園といち野観音道(大原道)道標がある。ガイドブックによるならば旧街道はここから蟹が坂までの間消失していることになっており破線で示されている。旧街道にこだわって歩くという信条にかられてその破線の道を進んでいくことにして、まずは大原道標にしたがって国道一号線を横断して旧街道を進んでいく。しばらく進むと草竹コンクリートの工場に入り込み、その先が消失している。 |
しかたなくもどってアパートの横の道を降りて国道一号線に出て進む。今度は国道一号線の右手の道を探してみるがそんな道は痕跡もない。右手の採石場の通路になってしまったのかなと眺めつつ国道一号線を進んでいく。猪鼻で右手に下って行き、左に折れて進むと右手に旅籠中屋跡の石碑が現れる。その横に明治天皇が江戸に移る時にここで休憩したという石碑が立つている。確かにここは旧街道だったのだと確信して進むと、その先からら急勾配の坂道となる。 |
それを登ると国道一号線にでて、正面に金比羅神社が現れる。ガイドブックには国道一号線の左手に蟹か坂への道があるようになっているので国道を横断して神社の左手の道に入ってみるがその先で山に入り、道は消失している。しかたなく国道にもどってしばらく進むと左手下に道が見えるので、あの道が旧街道なのかと思いつつ進むと蟹が坂の地点で合流し、国道一号線を横断することになる。蟹塚がこの付近にあるらしいのだが、もどるのが面倒なので諦めることにして進む(どうも旧街道跡がよく分からないと不満に思えた)。 |
大きな工場の真ん中を通過していくと蟹坂古戦場跡にでる。1542年にこの地で大きな戦があったとのことだ。古戦場跡を右手に見てまっすく進んでいくとやがて田村川に突き当たり行き止まりとなる。昔はここに橋があったのだが今はないので、どうなっているのかと探索していると、子供と散歩している製材所の若奥さんが来たので橋のことを聞いてみた。街道歩きの方が時々尋ねてくるので、以前は少し上に行って板で渡してあげていたようだが、今はやっていないとのことだった。また製材所の方から2?3年後に橋を架ける計画もあるという話しを伺った。残念だがここは国道の橋を渡るしかないと諦め、左手の国道一号線にでて田村川に架かる橋を渡った。橋の先には田村神社があるがそこはもう土山宿だ。 |
(2004年4月16日、以前、坂下宿をうっかり通過してしまったことを反省して、じっくり探索しようと再度この宿場にやって来た。街道左手にあるバスの降車場の横には松屋本陣跡の碑が立つ。降車場手前には連子格子と白壁の美しい建物があり、唯一街道筋の面影を残している。宿場は一直線に並んでいるが、その他には過日の面影は何もない。しばらく進むと左手の電柱の横に大竹屋本陣跡の石碑がありその先には梅屋本陣跡の石碑がある。) |
(その先の右手には法安寺があり、そこの庫裡の玄関は松屋本陣の玄関だったものであるとの解説がある。街道にもどって進むと右手に小竹屋脇本陣跡の石碑がたっている。繁栄を極めた坂下宿は、店もない民家も少ない小さな集落になっていた。「坂の下では大竹小竹、宿がとりたや小竹屋に」と馬子歌に唄われた賑わいを、ひっそりとした石碑群をみて思い浮かべつつ、坂道を進んでいく。街道脇にある楓の若葉が春の陽を浴びて輝いている。) |
(岩屋観音前を通過してから前回は右の山道を歩いたが、あれは街道ではないとの説があるので直進して歩いてみる。国道一号線の右端となった街道は少し高くなっている。しばらく進むとやがて片山神社の入り口が右手に現れる。ここから先は前回と同じになるので省略する。国道一号線と平行しているあの山道は鈴鹿峠下にある環境庁・三重県の掲示板には旧街道を含めて東海自然道と記載されている。東海自然道として新たに造った道ではないだろうから(私の推測として)、道としては国道側も山道も両方あったように思える。国道側を街道とすれば何かの都合で裏道として山道ルートも造られいて、それなりに利用されていたのではないかと思える。ガイドブックには山道が旧街道だと記載されているが、歩いてみた感じからすると国道側の道の方が道幅も広く旧街道とする説が正解のような気がする。) |