消えた街道
・鈴鹿峠と土山宿との間にある山中から蟹が坂までの約一キロ程の旧東海道の痕跡がハッキリしない
・猪鼻村を通過していることはハッキリしているのだが・・・、そこで現地調査をこころみた

 山中---猪鼻---蟹が坂 約1km
 2004年4月16日、17日





 ここで”失われた東海道”と呼んでいる箇所は、ガイドブック「東海道五十三次を歩く」第5分冊、43ページの地図上の破線の箇所である。その箇所を抜粋したのが上の図である。つまり猪鼻村を通過する旧東海道ということだ。


 鈴鹿峠を越え、緩い勾配の国道1号線を下ってくると、やがて第二名神高速道路の下を通過した先で山中一里塚公園のある所に到着する。国道1号線と第二名神高速道と旧東海道とが交差するこの箇所から、失われた東海道探しの旅がはじまるのだ。まず、この公園の右側に「いちの観音道」の道標があり、ここから旧東海道とわかれて甲賀町いちの村へ続く「いちの観音道」が起こっていることが解説してある。「いちの観音道」のこともかじってみたいがそれは脇において、この道標の隅にこの地点の図解があり、それによるならば旧東海道は国道一号線を渡ってゆるやかに右にカーブしていると図示されている。また、この道標の脇には石でできた馬引きの像があり、昔はこういう人がこの街道を闊歩していたんだろうな?と当時を忍ばせてくれる。


 では早速、国道1号線を渡って右へカーブしている道に入ると右手に社員寮のようになアパートのような建物を見下ろす道を進んでいくと、やがてコンクリート製品を製造している工場の庭へと入ってしまう。しかたなくUターン気味にして工場の門前へといこうとしたら、先の社員寮の方向へ歩いていく工場の人がいたので走って行って声をかけてみた。
「すいません。この道は旧東海道ですか」
「そうですよ」
「この道は工場のなかにはいってしますが、いつからこのようになくなったのですか」
「2、30年前、工場ができてからです」
「ちっと写真をとっておこう」
「工場のなかは取って欲しくないんですが」
「はい、この道を撮らせてください」
ということで、写真を撮って工場の門前へとでた。門前には草竹コンクリートの看板がかかっていた。旧東海道という公道がなぜ私有地になっんているのか、という疑問はどう解決したらいいのか?


 国道1号線にもどってしばらく進むと、右手に車道から歩道へ入れるように段差をなくした箇所がある。ガイドブック「東海道五十三次」の地図によるならば、左手の草竹コンクリート側からくだってきた旧東海道がこんどは右手の丘の方向へ進み、ゆるやかに左カーブするとなっているので、その草地に分け入ってみた。暫く探し回ったが道らしいものは発見できず、藪で進めなくなっていた。国道に戻って進み、振り返って見ると先の藪は採石場の突端だった。採石場には国道側に道があるがその道が旧東海道なのかなと昔を忍んで眺めつつ猪鼻の交差点に進んでいった。ここでも旧東海道は私有地になっているのかと残念な気持ちが沸いた。


 猪鼻の交差点を右折して採石場へ戻らない坂道を下り、突き当たりを左折して進むと右手の畑で70前後の年寄り夫婦が働いていた。通りすぎてから、地元の人にこの付近の昔のことを聞くことが必要だと思い、引き返して聞いてみた。
「すいません。ちっと伺いたいのですが。この道は旧東海道でいいんですかね」
「ああ、そうだよ」
「そうすると、この道をずっと進むと坂道を登って国道にでますね。昔はどうなっていたんですか」
「昔はいまの国道を渡って山の上を越えて向こう側へいったんだ」
「ああそうだったんですか。国道を渡って山をこえて行っていたんですね。なるほどね。昔の道がなくなってしまっているんで、昔はどうなっていたんだろうということに興味をもって調べているですよ」
おばあさん曰く、「今は工場ができてしまって、工場ができてからは向こうの方(コンクリート工場と採石場のある方)は変わってしまった。昔の道がなくなってしまった」
「そうですね。さっき見てきたんですが、コンクリート工場の中へ入っていって行き止まりになり、旧東海道はなくなっていた」
「あの採石場を通って向こうにいっていたんですよ。昔はね。いまは道がなくなってしまった」
「残念ですよね。どうもいろいろ聞かせてもらってありがとうございました」
ということで、ここが正式の東海道であったことを確認して進むと、右手に「旅籠・中屋跡」という石碑があった。その脇には「明治天皇聖跡」という石碑とその謂われを記した大きな石碑もたっていた。それによると明治天皇が江戸にいくとき、二度、小休憩をこの旅籠でしたとのことのようである。いずれにしろ天皇が江戸に行く時に通ったこと、しかも二回ともここで小休憩したとのことなので、相当な難路だったに違いないと推測できる。


 その急な坂道を登り国道一号線に出る。ここで正面に金比羅神社があり、その左手に山の方へいく道がある。あの道がさっきのおじいさんが言っていた山を越えていく道に違いないと思い、いってみることにした。道はまっすぐ山に入っていくがその先には道がなかった。左に回り込む道があるのでそちらの方にもいってみたがはっきりとした道はなく、うっすらと道らしい形跡があるというものだった。で、ここで冒険してみることにして、強引に獣道かもしれない、街道の形跡もない藪に近い所をつき進んでいった。左手にGPSをつけたPDAをもっていたので一応どこにいるのか、どの方向にすすむべきなのかを確認しつつ進んだが、迷子の恐怖に半分とらわれていた。初めての山の中で方向感覚がまったく効かない、目の前の木々だけがみえているだけの山中を突き抜けて、やっと蟹が坂側の山道にでた。このときは本当にほっとした心地だった。この道を前に進んでいったが昔の街道の面影の残るものはみつからなかった。やがて蟹が坂の国道一号線に出た。16時ごろなので今日はこれで終了。明日、再調査をすることにして、田村神社前のバス停へ急いだ。


 翌日、貴生川駅から田村神社行きのバスで40分。田村神社で広重の描いた旧東海道の橋の跡を見ようと神社側から川岸にいってみた。入口の鳥居を通過して進むと、その先に奥の鳥居があり、その右手に高札場跡の碑と川に続く道が残ってた。進入禁止の看板が立っていたが地元の高校生達がジョギングして通過しているので私も川岸へと進んでみた。しかし、四方を探して見たが橋の形跡は見当たらなかった。残念!


 田村神社を後にして再び猪鼻をめざして進んだ。蟹が坂側から国道一号線にでる直前のところの左手に神社があるが、この神社のとなりの家の人が、倉庫前で農作業に出かける準備をしていた。80才ぐらいのおじいさんと60才ぐらいのおじさんの二人が立ち話をしていたので早速挨拶をして旧東海道のことを聞いてみた。
「旧東海道のことを伺いたいのですが、その道は今どうなっているんですか」
「この国道を渡っていくと山の中に入っていく道ある。その道をいくと橋があるが、その橋の手前に左にいく道があった。それが旧東海道の道だ。今はその道はすぐ藪になっていて進めない。国道ができて路肩になって埋められてしまった。藪を進んでいけば国道にでるが行く人はいない。山は国に売ってしまったのでしょうがないんだ」
「いまでも旧街道の形跡は残っているんですか」
「橋の手前に道の形跡が少し残っているよ。反対側には蟹塚がある。あの山がぐるっと続いていたんだ。昔はね」
「なるほどね。橋の手前の左側ですね。わかりました。いってみてきます。ありがとうごさいました」
このおじさんの言葉で、いよいよ旧東海道の失われた道をみることができると思うと胸がわくわくした。


 さっそく国道一号線を渡って蟹塚の道標がたっている山道を進んだ。国道から200mぐらい進んだところで右手に蟹塚への道標がたっている。そこをよく見ると草がぼうぼうと生えているが木々がない部分がまっすぐにつづいていることがわかった。おお!道だ!めったに人が通らないので草が伸びているが、木立がきれて続いているのは人工的つくられているものであることを示している。鬱蒼とした木立の中を進むと川の先に五段に石をつんだ蟹塚があった。


 蟹塚への道を戻っていくと、もとの山道にでるがその場所は橋の手前であり、左手には、さっきと同じく木立がきれている道のようなものがあった。やった!やっと探し当てた、これが旧東海道の形跡だ。しかし、発見のうれしさと同時に、あまりの貧弱さに無念さも湧いてきた。その藪を進んでいくと上を車が進んでいくのが見えた。よしこの路肩の藪を登ってやろうと決めて強引に登っていくとやがて国道にでた。そして国道を進んでいくと昨日みた金比羅神社の前にでてくる坂道が見えた。金比羅神社の階段付近から猪鼻村からの坂道と国道をみると、国道を通す為に立ちはだかる山を切り開いたことが一目瞭然にわかる。ここは国道を通す為の切り通しであったのだ。左右の山の高さを地表からみると電柱一本半ぐらいの高さまで山があったことがわかる。ここには東海道をさえぎるように山の壁がそびえていたのだ。


 切り通しの国道ができる前、猪鼻村から蟹が坂へ行く旧街道は、壁のようにそびえたつ山を越える道だったのだ。上の写真に書き込んだ白線のように国道の上あたりのつづらおりとなった坂道を峠まで登っていったに違いない。そして昇り終えると、こんどは蟹塚方面につづらおりの急な坂道を下っていったのだと思う。猪鼻村からの急勾配の登り道を峠まで進み、そして蟹塚方面へ下っていくのだから、かなりの難義を旅人に与えたのだと思う。今日のように天気のいい日に、汗を拭きつつ、フウフウいいながら登っていく旅人の姿が忍ばれる。昨日、おじいさんがいっていた国道を越えて山を越えていったのだというのは、このことだったのだとやっとわかった。切り通しの国道を造ってしまった今となってはもう戻せないが、また、地元の人にとっての利便というものもあるのでどっちがよかったのか判断しかねるが、私としてはトンネルにしてもらって旧東海道はそれとしてのこして欲しかったなとも思う。しかし、いまとなっては仕方ないので、せめて当時の道はこうだったという解説の掲示板を残して欲しいものだがどうだろうか。


 失われた東海道、山中から蟹が坂までの間、約一キロ程度の街道なのだが、国道一号線を通すために一部は私有地になり、一部は切通しで消滅し、また一部は国道の下に埋まってしまったというのが真相のようである。ということで、私の報告はここで筆をおくことにする。



(55三条大橋) (62本陣跡)

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