20:府中宿(ふちゅう)
・天保14年の人口14071人、家数3673軒、旅籠43軒、本陣2軒
・将軍職を辞した後、1607年駿府に移った徳川家康はこの地で大御所政治を行った
・武家諸法度や禁中並公家諸法度を駿府で決定し、江戸の秀忠に下した
・駿府の領主だった忠長が死んだ後、駿府の人口は大幅に減少し、繁栄も収束した
府中---梅屋町---川越町---安倍川橋---丸子 5.6km
2002年11月9日、2011年8月1日
国道一号線を横断して進むと旧街道は繁華街となっている。人々が行き交う中を進み、寿司屋「宇を鉄」前にあるという西郷隆盛と山岡鉄舟会見の碑を探した。ガイドブックで示されている当たりで見渡したが、街道右手側からは人がぞろぞろくるので気後れして探し回らず先へと進んでしまった。後から分かったのだが、この地点は静岡鉄道の新静岡駅から繁華街へと通じる通路となっている箇所なので人が多いのは当然だったのだ。探索する気合がたりなかったと反省。薩垂峠の望嶽亭にも登場した山岡鉄舟は北辰一刀流の達人だったそうで、駿府まで進んできた東征軍の参謀・西郷隆盛に勝海舟の手紙を持参して会見し江戸開城の前哨戦ともなる談判をこの地でしたとのことである。 |
2011年8月1日、本陣跡を探して再び府中宿を尋ねた。右手に静岡銀行のある伝馬町交差点を進んでいくと左手にの歩道に往時の宿場の絵図と下伝馬本陣跡・脇本陣跡碑が現れる。街並みを示す絵図を見ると下伝馬町、上伝馬町それぞれに本陣と脇本陣があったと記してある。この碑があるSELECT SHOP3のところが往時の下伝馬の脇本陣があったところで、その右斜向かいに小倉本陣があったとのことだ。キョロキョロしても何もなかった前回との違いに感激しつつシャッターをおした。 |
次にもう一つの上伝馬町の本陣跡を探して右手の歩道を進んで行くと、メガネ市場の手前の所で上伝馬本陣跡・脇本陣跡碑が現れる。ここに望月本陣があり、その二軒手前に脇本陣があったとのことだ。ここもカメラに納め、本陣跡を二つとも発見できたことでひと安心した。そこでふと、西郷・山岡会談が行われた跡があったことを思いだして街道をその先に進んでいく。すると、なんとホテル・シティオ静岡の外壁の所に「維新の歴史を変えた街」「西郷・山岡の静岡会見」という大きな案内板が現れた。「ああ、ここだったのか」と、意外にもあっさり発見できたが、前回うろうろしても見つからなかったので感激した。余計なところを前回はうろうろしていたな?と思った。(追記完) |
大通りに出て地下道から駿府城址側に出ると城の石垣が見える、がそれだけではない。そこには華やかな衣装をつけた大勢の人がパレードをしており、にぎやかな音が鳴り響いているのが見えた。足早に近づいてみると朝鮮通信使に扮した人々のパレードだった。城の堀端で音楽と踊りも披露していた。珍しい光景だったので早速カメラに納めさせてもらった。 |
城の左側をチョット歩いて見ると、弥次喜多コンビの銅像があった。二人の間に入って記念写真とるように造られているので、タイマー撮影で早速挑戦してみた。ところで、この府中宿は家康が将軍職を辞してから晩年を過ごした所であり、駿府から江戸へと家康の決定を伝えて支配するという大御所政治を展開したという意味で、当時は実質的な首都でもあった。時間もないので駿府城内の家康像を探さずに駿府公園を後にした。 |
大通りにもどり市役所横から伊勢丹の前にでると、旧街道側に札ノ辻碑があった。次いでに伊勢丹に入ってトイレ休憩にした。ガイドブックではこの札ノ辻で左折するルートと呉服町で左折するルートが載っているのでどちらをとるか迷ったが、札ノ辻で左折するルートを進むことにし、安倍川に向かって歩いた。途中で右折し呉服町ルートと合流することになる。 |
かつて遊廓があった川越町を過ぎ、信号のある大通りを直進していくと、バス通りと旧街道との三角州のような所に弥勒町の道標と由比正雪の墓跡があった。安倍川はすぐそこであり、手前には名物安倍川餅の店・石部屋がある。その隣には拾った財布を落とし主に届けた安倍川義夫の碑がたっている。ガイドブックの地図では川沿いに由比正雪の墓跡があるかのように指示されているが違っていた。 |
広重は府中宿の絵としてこの安倍川の渡しを描いている。今はがっしりした鉄橋がかかっており、広々とした河原には誰もいない。長さ600m位、歩道付きの安倍川橋の袂にたつ。対岸の丸子宿側には強風で土ぼこりがたっている。あの中を通過すると思うとためらいもあったが迷っている暇はなかった。うまい具合に土ぼこりが弱まったタイミングで通過できた。橋を渡り、手越を通過し国道一号線と合流して進み、再び分かれるとその先は丸子宿だ。 |