38:藤川宿(ふじかわ)
・天保14年の人口1213人、家数302軒、旅籠36軒、本陣1軒
・鎌倉街道時代から旅人の休息場となっていた古い宿場である
・江戸幕府の命で集落を移転させ細長い宿場町をつくった

 藤川---藤川荒古---美合新町---大平町---岡崎 6.6km
 2003年4月29日





 国道一号線と分かれ左に入ると、すぐの所に藤川宿の解説の掲示板がある。そしてその先には広重の藤川宿の絵に登場する東棒鼻が復元されている。そこが宿場の境であることを示す棒示杭と左右の石垣、それに冠木門が立っている。うあ?広重の絵に描かれたあの棒鼻だと復元された棒鼻に感激した。1993年に復元されたとのことだが、ガイドブックの写真ではよく写っていなかったので、予期せぬ風景に心がおどり、何度もデジカメのシャッターを押した。地元の方々に感謝。ところで広重の絵は宿場内から見た棒鼻付近の風景だが、デジカメは宿場外から見た風景になっている。似ているけどチョット違ってしまった。残念!


 宿場内に入り枡形を通過すると、その先に一直線に並んだ家並みが現れる。連子格子の家がところどころにあり、街道筋の面影を感じる。しぱらく進むと交差点があり、その右角一帯が高札場跡とのことだ。その先の左手に城の櫓のような造りの家が現れる。何かと思い近づいていくと粟生人形店という店だった。その先、右手には住居前に問屋場跡や本陣跡の石碑が残っている。


 その先には白壁と門構えを残している脇本陣跡がある。敷地内には藤川宿資料館があるのだが時間もないのでパスしてしまった。さらに進んでいくと小学校の先に西棒鼻があるのだが、その手前の左手にむらさき麦の畑が現れる。この麦はこの地方の名産で穂が紫色になることからむさらき麦と呼ばれ、芭蕉の句や古歌にも詠まれているものだ。5月中旬以降になると紫色の穂を見られるらしい。右手の少し先には、宿場の西の端であることを示した西棒鼻が現れる。その先左手には芭蕉の句碑がある。「ここも三河むらさき麦のかきつばた」と、この地の名産のむらさき麦をおりこんで読んでいる。その先には一里塚跡があるらしいが気づかなかった。


 さて藤川宿を後にして街道をしばらく進むと、Y字路となる。その分岐点に左手の街道は三州吉良への道(愛知県西尾市へ通じる道)であることを示す吉良道道標(1814年敷設)がある。東海道は右手を直進して進む。踏み切りを渡り進んでいくと旧街道の面影を残した藤川松並木が現れる。歩道がないので車に注意しつつ松並木の風情を堪能しなければならないのが玉に傷だ。松並木を抜けるとその先で国道一号線と合流して進む。


 しばらく国道を進むが、街道は坂下橋の手前で左手に入り国道の喧騒と分かれる。ところどころに松の木があり旧街道であることを示している。大きな通りを渡ると芭蕉の句碑と源氏蛍発生地碑があるとガイドブックにあったが、そこは自動車のスクラップ工場で廃車が散乱しており、そのような碑は発見できなかった。山綱川の橋を渡り直進すると乙川にでるので、右手に折れて国道一号線の橋を渡り、また左手に折れて旧街道にもどる。


 国道一号線を渡りしばらく進み、郵便局の角を右に曲がった先に西大平陣屋跡がある。八代将軍吉宗時代に江戸町奉行を努め、名奉行と呼ばれた大岡越前守忠相の陣屋で、1748年に設立されたものだ。白壁と黒板塀に囲まれた立派な門構えの陣屋が復元されており、見学方々トイレ休憩させてもらった。


 街道にもどり進んでいくと左手に大平一里塚跡が現れる。塚の中央には榎が植えられており、原型をよくとどめているといわれている。その先で街道は再び国道一号線と合流する。国道一号線をしばらく進み、高速道路をくぐり、筋違橋の先で国道一号線と分かれて右手斜めに進み、岡崎二十七曲碑の前にでる。ここから先は岡崎宿だ。



(37赤坂宿) (39岡崎宿)

ホーム東海道>藤川宿