22:岡部宿(おかべ)
・天保14年の人口2322人、家数487軒、旅籠27軒、本陣2軒
・宇津ノ谷峠の西の麓にある小規模の宿だ
・隣接する内谷村が加宿され人馬継立の負担を分担していた

 岡部---横内---鬼島---水守---藤枝 6.7km
 2002年11月9日、10日、2003年11月23日





 夕闇につつまれた県道(藤枝静岡線)を進んでいくと橋のところで左手にカーブする。その先に信号があり、近くに旅籠・柏屋の看板がみえた。午後6時半ごろなのに、人通りがないので聞きたくても聞けず、あせっていると電話BOXがあった。宿泊予定の旅籠に電話して近くまで来ていることを告げ、その旅籠の場所を聞いた。そのまま進み、酒屋の角を左に曲がった少し先にあるとのことだったが、その酒屋が見つからずどんどん歩いて行くとガソリンスタンドがあった。スタンドの人がいたので、聞いたらもっと手前の方だと教えてくれた。そしてやっとたどり着くことができた。知らない土地では人の親切ほどありがたいものは無いなと実感した。
 そんなこんなの失敗と苦労の連続だったので、宿の女将さんといろいろ話が弾み、峠の道のランナーの話をしたら近々マラソン大会が地元であるのでその練習をしている人ではないかとのことだった。これで一件落着とあいなった。岡部宿到着が夜となってしまったので、岡部宿内の手前側の本陣跡など、ほとんど見ないままで通過、当然カメラを向けることもなく過ぎてしまったが仕方ないと諦めた。先もあるので翌日はそのまま前進することにした。


 (1年後の11月23日、再度歩いて見た。県道が左手にカーブする橋の手前にY字路があり、右手の細道が旧街道である。街道を進むとこれも少し先で左手に曲がり橋を渡る。橋を渡った先が岡部宿だ。県道に再び合流するがその先に当時の大旅籠柏屋が見える。ここは観光の目玉として再建されていて、入場料を払うと解説人付きで説明してくれる。旅籠前には深編笠の浪人がいたので記念にカメラに入ってもらった。部屋に上がると弥次さん喜多さんが一杯やっていた。)


 (柏屋を出て街道を左手に行くとその先に本陣跡の石碑がひっそりと民家の前にたっていた。問屋場跡、小野小町の姿見の橋、連子格子の家並みを過ぎて宿場外れの升形の通りにでると、右に酒屋があった。前回、旅籠の女将さんは旧街道を歩いてこの場所にでてくると思って説明してくれたが、私は路地入ると分からなくなると思い、県道を進んでしまったので話があわず迷ってしまったんだなと今になって得心した。お粗末!)


 話しは戻って2002年11月10日の朝、旅籠・きくやをでて街道を進み県道と合流した先に五知如来像が右手にある。昔、口の不自由な姫君がこの如来像に願をかけたところ、病が治癒し口がきけるようになったとの言い伝えがある如来像である。街道を暫く進むと昨夜のスタンドの前にでた。店員さんに挨拶と昨夜のお礼をいうと「見つかりましたか?」と聞かれ「おかげさまでたどり着けました」と報告し、繰り返しお礼をいった。本当にありがとうございました。このスタンドの先から岡部宿の松並木がある。松はそれほど太いものではないので、昔からのものではないようである。


 国道一号線との立体交差の先の信号で旧街道はY字路を右に行く。沿道の家々には昔の屋号がかかっている。出発してから間もないのに足の豆が痛いので、横打橋のベンチで豆の水を抜いた。この先、足がもつのか不安となる。途中、葉梨川にかかる八幡橋をわたった先で街道横に菊の花が咲き、柿の実が紅く熟れていた光景に出会った。日本の秋を旧街道の沿道で味わうと旅情もひとしおである。


 街道を先に進むと、その先には須賀神社の大楠がある。周囲を圧倒する大木をカメラに納めて先を急ぐことにした。街道はここで右に大きくカーブし、また左にカーブする。鐙ケ渕跡といわれる場所で、昔は渕にそって街道があったとのことだ。積水工業の工場を左手に見つつ進むと国道一号線と交差する。この交差点を渡るとその先は藤枝宿である。



(21丸子宿) (23藤枝宿)

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