18:興津宿(おきつ)
・天保14年の人口1668人、家数316軒、旅籠34軒、本陣2軒
・鎌倉時代に興津氏が長者となって宿を支配していた
・興津川越や身延山への追分もあり宿泊者で賑わった

 興津---清見寺町---黄砂西町---辻町---江尻 4.1km
 2002年9月22日、2011年8月1日





 広重の興津宿の絵は興津川の渡し場を興津宿側の上流から描いたものだ。川の左手に崖が描かれているが、この崖は薩垂峠側にあるものなのだから、と興津川の土手に登ってしばし川を眺めて見た。線路に邪魔されて絵の構図に近いところにはいけないのだ、残念。国道一号線に合流して右手に進んでいくと大きな交差点の右側の先にこんもりとした木々が見えるが、そこが宗像神社だ。縁結びの神様だと言われていた。先に進むと床屋さんの前に身延道道標があらわれる。昔はこの付近に石塔寺というお寺があったそうで、その入り口であったので髭のお題目碑がここにあるとのことである。またこの道は甲州と駿河を結ぶ交易路として発達したもので、後にはこの道をとおって武田信玄が大軍をひきいて駿河を攻めたとのことである。


 その先の民家と民家の間にひっそりと一里塚跡碑がある。そこから600mくらい進んだところに興津宿東本陣跡や西本陣跡があるとのことであったが、足のまめが痛くなってきて集中力を欠き、残念ながら見落としてしまった。

 2011年8月1日、本陣跡を探して再び興津宿を尋ねた。街道を進んでいくと交番の付近に興津宿案内板があり、往時の宿場の絵図が表示されている。それによると東西に本陣があり、その他にも脇本陣が三軒と旅籠が多数あったと記されている。早速宿場内を進んでいくと、右手の清水銀行の先に東本陣跡の石碑が現れる。


 その先の左手に、往時には脇本陣でもあった水口屋が今でも旅籠として営業している。暫く進むと、右手の山梨自転車商会の手前に西本陣跡の碑が現れる。カメラに納めてひと安心。以前にはこの様な石碑など無かったように思うのだが・・・・。よく整備されているなと思った。他にも興津宿では往時の屋号を灯籠にして家々の前に置いて街道気分を盛り上げてくれている。てくてく旅の旅人には有り難いものだ。(追記完)


 その先の清見寺は階段を登っていって見学した。ちょうど雨もあがってきたころで、道路に面した山門を登り、線路上の橋を渡って境内にいくという変わった造りの寺だった。山を背にした白い壁の塀と、立派な本堂や大きな鐘楼がひときわ目をひく。ここは家康が人質時代に遊んだところであり、秀吉が北条攻めに行くときに泊まったところだそうで、東海を代表する名刹といわれる寺である。以前はこの寺の前は清見潟といわれた海で、明治政府の重鎮たちの別荘が多くあったとのことであるが、いまはその海も遠くに去ってしまい建物しか見えない。(結局のところ、興津宿では本陣跡を見ないと、他にみるものがないようであった。残念!)


 再び街道である国道一号線にもどって歩き始めた。雨がまた降り出してきた。歩くたびに足のまめがじんじんと痛みだしてきた。東海道線を越え、庵原川を渡って進んで行く、雨はしとしとと降り続き、段々と薄暗くなってくる。細井の松原跡というところで、国道と分かれて旧街道の商店街をいくといよいよ江尻宿だ。本郷町で駅前につづく大通りにでた。旧街道はここを直進するのだが、次の楽しみに残して、私は左折して駅へ向かった。17時40分清水駅到着、やった!と心の中で叫ぶ。初めて雨のなかのウォーキングとなった。薩垂峠では道を間違えて雨のなかを右往左往してしまうなど、反省の多い体験だった。JRに乗り込み、缶ビールでひとり乾杯をし、大きな富士に圧倒されたことを思い出していると、いつしか眠りについていた。



(17由比宿) (19江尻宿)

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