53:草津宿(くさつ)
・天保14年の人口2351人、家数586軒、旅籠72軒、本陣2軒
・平安時代から東海道と東山道との分岐点という位置にあり、源平騒乱期には野路あたりが宿場だった
・徳川幕府による街道の整備では、当初から宿場として定められた

 草津---野路町---大江---瀬田唐橋---丸の内町---大津 14.3km
 2003年11月2日





 国道一号線を横断して右の土手を登り、橋をわたって右へ下ると左手に灯籠があった。その道をどんどん進んでいくと、しっとりとした宿場の感じが漂う情景となりT字路にでる。とうとう着いた、草津追分だ。T字路の右はトンネルとなっており、そこは中仙道の入り口なのだ。今は天井川となっているが昔はこの土手を登っていって草津川を渡ったそうなので、私も登って川をみた。が今どきはあまり水は無く、小川の感じがした。


 下にもどっ高札場跡と、追分道標「右 東海道いせのみち」、「左 中仙道美のじ」を見た。すこし歩いて草津宿本陣を見学。松平出羽守宿の表札が掛かっていた入口を入ると「国指定史跡 草津宿本陣」の看板あり、玄関正面には大名が泊まったときに掲げる表札がいくつもおいてあった。入場料を払わないとその先には上がれないので外にでた。


 反対側には脇本陣跡があり、少し先の右手に、関が原の戦いの後徳川家康が宿所とした常善寺がある。アーケードとなっている街道をさらに進むと左手に草津宿交流館があり、当時の旅籠の朝食や夕食、草津川越えの様子のビデオや、忙しい問屋場の様子、うばが餅などが見られた。なかなか面白いが有料だった。ここでトイレ休憩して先を急いだ。


 アーケードの最後の所の左手には草津政所といわれた太田家の当時の風情を残した大きな屋敷があった。しばらく行くと右手に立木神社、さらに進めば宮川のほとりの京方見付にあった黒門跡の解説がある。


 その先に進むと左手に光伝寺が現れる。更に進むと、その先の右手に矢橋道標が現れる。ここが広重の草津宿で描かれたうばが餅の茶店があったところだ。今は草津宿の東側の国道沿いに移ってしまったが、当時はここで店を構えていたとのことである。現在は瓢泉堂という瓢箪細工の店がある。矢橋道標というのは、ここを右折すると琵琶湖の矢橋湊へつづく道であることを示すものである。「うばが餅というのはどんな味がするのだろう」という疑問を抱えて先を急ぐことにした。


 大きな通りをこえ、二つ目の大きな通りは右方の地下道をくぐって進んでいくと、右手に野路の玉川が現れる。平安朝から鎌倉時代には、ここ野路が東海道の宿場であったと解説されている。また萩が咲き誇っていたところで、古くから歌によまれたところとのことだったが、当たりには萩の一つも見あたらなかった。


 先に進むと黒猫ヤマトのトラックが道端に止まっているその後ろに寺が見えた。通りすがりによく見ると、月輪寺と石碑に書いてあった。トラックがその他の石碑をおおってしまっていたのでこんな名所の前に止めるなよと呟いていたら、タイミングよく運転手がきてトラックを走らせたので全景を撮ることができた。旅にはこのてのことはつきものなんだと自覚させられた。先に進むと左手の公民館の入り口に月輪の地名の由来の碑がたっていた。その先にあった月の輪池周辺は工事中で一部が埋め立てられており、立場跡の石碑は見当たらなかった。先に進むと大きな通りに出た。ここらに一里塚跡があるはずだがと探してみるとすぐ左手にあった。近くてカメラにとれないので道を渡って反対側からとった。ピンクの立て札がモダンでユニークだ。


 学校を右手に見て坂を下り、十字路を左折、変電所を左手にみつつ進むと周辺の名所を示す看板があった。道を直進すると近くに近江国庁跡があると示されていたので、坂を登っていくと、大きな広場と休憩小屋、工事中らしい国庁の復元施設と解説等があった。ぐるっと見てから屋根つきベンチで昼食にした。今朝草津駅のパン屋で買ったサンドイッチがうまかった。


 街道にもどって建部神社へと向かった。大きな通りに出た左手に建部神社があるとガイドブックにのっているのだがない。建部神社の分社というのがあるがこれではないはずだ。付近のおばさんに聞くと、もっと先の交差点の左手にあるとのことだった。「またか」と思いつつ、このガイドブックの間違いをチエックして進んだ。途中、歩道脇に愛らしい猫の石像があった。先に進むと、「あったあった」左手に大きな建部神社が見えてきた。本殿はだいぶ先の国庁の近くにあるとのことなので行くのをあきらめた。


 次はいよいよ瀬田の唐橋だ。建部神社の前の道を唐橋へと直進して進むと、信号の先に橋が見えてきた。俵藤太秀郷の百足退治伝説で有名な瀬田の唐橋といわれているが、関東生まれの私には百足退治など聞いたこともない感じがしたが、有名なことらしいと認識を新たにした。唐橋は日本三大名橋の一つとのことだが、他の二つが何なのかは知らないので悲しくもあった。たしかに美しいなと眺めた後、唐橋を渡っていくと、橋を渡り終えたと思ったらもう一度橋をわたるので「あれっ」と思った。が、中州で中継されている広重の絵を見て自分がかってに一つの橋のイメージを創っていたことに気づかされた。


 橋の向こうについた先の左手に龍宮城のような不思議な建物があった。踏み切りを渡って右折、線路を二回越して進むとNECの工場が左手に現れた。小川のほとりに今井兼平の墓が左手奥の方にあると案内板に書かれている。どうやらNECの周りをぐるっと回って見るしかないようだ。さっそく左手奥へむかった。ぐるっと回り込んだ道の左、小川の側に木曽義仲の家来だった兼平の墓があった。ガイドブックの地図は工場の中を指しているので明らかに違ってた。


 ぐるっと回ってもとの東海道に戻ったところで雨がパラパラと降り出した。傘をささなくては濡れるなと思い傘を取り出したら止んでしまった。ゆるい左まがりの道の角に膳所城勢多口総門跡の石碑があった。歩いているとまた雨がきた。いよいよ本降りかと思いきや、すぐに止んでしまった。膳所町の途中で右折すると正面に城門がみえ、膳所城跡公園につく。城門と公園内にある石垣などが、以前城があった面影を残している。天守閣は跡を示す石碑があるだけだった。水辺に立つと琵琶湖を横断する近江大橋とそれを絵にしている人達が眺められた。のんびりと琵琶湖を眺めながら一休み、始めてみる琵琶湖の旅情にひたりつつカロリーメイトをパクリ。さて次は、いよいよ松尾芭蕉と木曽義仲が眠る義仲寺だ、と膳所城跡公園を後にした。


 もとの東海道にもどって進んだ。小さな川をわたった斜め左にいき右折、ガイドブックの地図は現地の案内図と道が違っている。どっちを信用すればいいのか大混乱して案内板をみていると、若い人が案内板を見てそのまま歩いていくので、とりあえず案内板に従うことにして進んでいくと、案内板のとおり膳所城北総門跡が現れた。ガイドブックではもっと手前の右側の道に膳所城北総門跡があるとなっているのだ。案内板にこの道が東海道だとあり義仲寺はこの先にあるとあった。ガイドブックの間違いをまたまた確認して前進。左手に義仲寺が見えた。前のほうから3人ずれがきて一足先に義仲寺にはいる。


 拝観料を払って境内の中へ入ると、以外と狭く、そこにいろいろ詰まっていることにおどろいた。義仲公の墓、側室巴御前の塚、芭蕉翁墓、「古池や蛙飛びこむ水の音」の碑、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の碑、「木曽殿と背中合わせの寒さかな」の碑がある。また、芭蕉が滞在した無明庵、芭蕉翁像を安置した翁堂、義仲寺本堂である朝日堂などなど所狭しとあって、ここに拝観者が10人もくれば、いっぱいとなってしまうところだ。当日も7?8人に膨れ上がっていたので、じっくり見るとはいかなかった。ところで、私は木曽義仲を源氏一族の人であることぐらいしか知らなかったが、一足先に入った親子ずれの会話によるならば、義仲は平家を破って京から追い出したが自身も平家に代わって悪どいことをしていたので嫌われ、ついに頼朝の命をうけた義経らの軍勢に攻められ、この地で討ち死にしたとのことである。これを聞いて源頼朝らとの関係をやっと理解した。さすがに平安朝から続く地だけに歴史が深いなと実感した。


 そういえば三島宿の先の神社に頼朝と義経が初めて再開し、行く末を語ったというところがあったことを思い出した。ところで当の芭蕉翁はなぜ義仲に愛着をもっていたのかはよく分からないままだったが、時間も押してきたので、それは今後の課題として今日の宿泊先である大津宿のはずれ、石場駅のそばにあるホテルDICをめざして義仲寺を後にした。16時25分、旅籠に到着。何とか雨に降られずにすんだ。明日もこの調子でいきたいものだ。



(52石部宿) (54大津宿)

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