31:舞坂宿(まいさか)
・天保14年の人口2475人、家数541軒、旅籠28軒、本陣2軒
・家康支配の下、今切渡船の運営権は舞坂宿には認められず新居宿の独占だった
・江戸大森の海苔職人の指導により海苔の養殖に成功し天保期には評判となった

 舞坂---弁天島---西浜名橋---新居 5.9km
 2003年3月29日





 国道を渡って直進すると舞坂宿に入る。当時、宿場の入り口に設けられていた見付け跡の石垣が両側に残っているが、宿場の面影は町並みには見あたらない。少し進むと、右手に細長い公園のような箇所が現れる。一里塚跡があり、その奥に当時の宿内軒別書絵図面の石碑があり、一里塚の位置も記されている。街道の反対側にも常夜灯の奥に一里塚跡の碑が立っている。


 しばらく進むと右手に舞坂宿本陣跡の石碑がある。その先の左手には、脇本陣がある。脇本陣は無料で見学できるので、チットのぞいて見た。当時の旅人の服装を再現した人形があったので一応デジカメに納めておいた。


 脇本陣を後にすると、新居宿へ渡る為の船着場、雁木跡がすぐそこにある。直進して着いた所は武士が使用した本雁木跡だが、いまは何も残って無い。右手に少し歩くと北雁木跡にでる。ここは大名など身分の高いものが使用した船着場で、石垣、石畳、常夜灯などが復元されている。なお、東海道は古くは舞坂から新居まで砂州でつながっていたが、1500年ごろ、江戸時代よりも以前に地震などで決壊して今切口となり、それ以降は舟で渡るようになったとのことである。


 広重の舞坂宿の絵はこの雁木付近からみた浜名湖の風景を描いているが、絵の中央にある突き出た高い山は実在するものではなく、広重が創作したものといわれている。この日は雁木跡で海側を望むと太陽が丁度正面の位置にあり、もろ逆光となるので雁木跡の全景を広重の絵の構図では撮れなかった・・・・残念!


 さて現代はここから新居宿まで舟でいくことはできないので、歩いていくことになる。弁天島に渡る弁天橋をわたって進んでいくと、左手に弁天神社があるがその手前に弁天神社が建てられた謂れを解説した弁天島と天女の掲示板がある。三保の松原の天女は当初はここに舞い降りたとのことが書かれていて面白い。島には大きなリゾートホテルが林立しているが、まだお客さんは少ないようだ。


 その先の中浜名橋を渡って進んでいくと閉鎖されたリゾートマンションなどがあり、不景気がこういうところにあらわれているのかとしみじみ眺めて歩いた。長い西浜名橋を歩いていくと釣り糸をたれている太公望が何人かいた。釣禁止の看板があったが・・・・・。橋をわたって歩いていくと右手の遠くに競艇場が見え、やがて新居町駅が現れる。この先は新居宿だ。



(30浜松宿) (32新居宿)

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