36:御油宿(ごゆ)
・天保14年の人口1298人、家数316軒、旅籠62軒、本陣2軒
・持統天皇が宮路山に来たときに油を献上したという伝説から御油の町名になった
・姫街道が分岐する追分でもあり旅人も多く繁盛し、宿場の住人は男より女が多かった

 御油---松並木---赤坂 13.7km
 2003年3月30日、4月29日





 交番の先のY字路を左手に進んでいくと、右手に薬師堂が現れる。さらに進んでいくと右手に白壁に囲まれた大社神社がある。時間は夕方6時、灯籠には明かりが灯っていた。御油一里塚跡がその先の右手にあり、日本橋より七六里と記されている。さら進んでいくと車道と交差する。ここが姫街道と東海道との追分であり、右手にはそれを示す道標が立っている。カメラには納めないでパス。しばらく進んでいくと御油橋が現れる。夕闇せまる橋は桜に包まれ、旅の客をなごませてくれた。橋を渡り、しばらく進んでいくと、なんとなく見たことのある風景になる。あれ、広重の御油宿の絵の風景に似ているなと思いつつも、夕闇にスッポリ包まれてしまいカメラは諦めた。


 先に進んでいくと高札場跡があり、そこを右にまがると、右手には広重の絵の掲示板と問屋場跡がある。夕闇につつまれてしまったが御油宿の端まで見たので、今回の旅はここまでにして、御油駅から帰途につくことにした。

(該当する写真が撮れてない!)

 駅は無人駅で上り下りとも客はいなかった。上りホームの待合室で待つこと40分、やっと来たと思いきや電車は通過。次の電車も、次の電車も。え?どうなっているの?時刻表には発車時刻が書いてあるのに・・・・。待合室に来ていたおじいさんと連れの孫娘もどうなっているのか不安になり、ついには連れの孫娘はおじいさんと来るんじぁなかったと泣きだしてしまった。対応不能になり、どうしたものかと考えあぐねていると構内放送がきた。車両故障が発生して電車が遅れているとのことだった。定刻より20分位遅れてやっと乗車できた。もっと早く放送してくれと不満も言いたかったが、見ず知らずの土地に踏み込んでいろいろ見学できた喜びがそれを幾重にも上回っていたので私は寛大な心持ちだった。


 4月29日、国府駅から再び御油宿を通過して歩くことにした。前回は夕闇せまる状況でゆっくり堪能できなかったから。駅から直進して進み、右手に折れ旧街道に入る。大社神社の白壁を右に見て進み、姫街道と東海道との追分に出る。右手が姫街道だが、常夜灯も道標も周りの民家にかこまれて小さくなっていた。その頑張りをデジカメに納めた。その先に進むと、御油橋は若葉に覆われ、桜花とはまた違った雰囲気を醸していた。


 その橋の先には、広重の絵に出てくる御油の宿場の構図と似た通りが現れる。いまにも留女が出てきそうな、そんな雰囲気がある家並みだった。その先に進むと街道は右に折れるが、その角の左手には高札場跡があり、右手にはベルツ博士の妻、花夫人ゆかりの地の立て札がある。明治初期に東京医学校の教師として来日し多大な功績を残した博士の妻の実家で、戸田屋という旅籠がここにあったとのことである。その先の右手の空き地には広重の御油宿の絵の掲示板と問屋場跡の立て札がある。


 街道は左折して車道と合流するが、車道を越えた先には松並木資料館があるのでそこを見学した。入り口には家康時代に植えたと思われる松の切り株が展示され、館内には御油・赤坂地区の復元模型や旅装束などが展示されている。街道に戻り進んでいくと、左手に辻行灯を置き街道情緒を残した茶店こくやがある。


 その先には立て札と標識だけとなった本陣跡がある。そしてその先の左手には家康も立ち寄ったといわれる東林寺がある。ここには世をはかなんで自殺した5人の飯盛女の墓があるというので探してみた。ガイドブックの写真よりも墓石が密集していて分かりにくかったがいまでも存在し献花がしてあった。御油宿には最盛期に300人もの飯盛女がいた。また遊女屋が30軒もあったとのことだ。


 東林寺を後にしてしばらく進むと松並木が現れる。街道の右手には天然記念物御油の松並木の碑が立っている。ガイドブックで見たあの松並木だ。季節もよく若草や若葉も合わさってすばらしい街道情緒を醸しだしていた。すばらしいこの景色をいれて自分撮りをしようと松の切り株にカメラを置いて撮っていたら、近くの建物にいた人が出てきた。シャッターを押してくれるのかなと思ったら、切り株の上をみて松の若芽を折らないようにと注意だけして戻っていった。松並木を守りたい気持ちは分かるが、旅人を破壊者としてしか見ないのでは松並木の玉に傷になってしまうのでは、といささか気に病んだ。しかし、天気もよく街道情緒を満喫して松並木を歩いた。その先は赤坂宿だ。



(35吉田宿) (37赤坂宿)

ホーム東海道>御油宿