17:由比宿(ゆい)
・天保14年の人口713人、家数160軒、旅籠32軒、本陣1軒
・今川氏の家臣だった由井氏が帰農して岩辺を名乗り、問屋や本陣をになっていた
・桜海老が由比町の名物、水揚げは日本一だ

 由比---東倉澤---薩垂峠---興津大橋---興津 9.1km
 2002年9月22日、2004年5月7日





 東名高速ガード先のY字路からしばらく歩くと左手に一里塚の標識があらわれる。由比の新町の一里塚は江戸から39番目と書かれている。由比宿は鎌倉時代から湯居宿と呼ばれていた宿場であるが、山と海とに挟まれた小さな宿場である。


 街道を先に進むと左手に正雪紺屋ののれんの下がった店があらわれる。正雪と聞けば由比正雪という名が浮かぶが、ここが当人の生家なんだとそのときに知った。正雪紺屋の屋号が掲げられているように、正雪の生家は染物屋だったのである。江戸時代初期に、大名の取りつぶしが行われた結果、牢人(失業武士)が多数生み出され、徳川幕府への反感がつのっていた。これを憂いた兵学者由比正雪は、丸橋忠弥ら全国で蜂起した牢人により幕府を転覆する企てを進めたが、内通者により企てが幕府に発覚し、駿府で自害したとのことである。この事件後に、幕府は大名統制を緩和したとのことで、幕府を転覆しょうとした大悪人というような記憶があったが、一概に悪人とも言い難いようである。


 正雪紺屋の真ん前、街道の右手には、堀と塀にかこまれ、ものみの塔まである大きな屋敷跡は由比本陣をそのまま公園にした由比本陣公園である。公園内には広重美術館がある。当日は先を急いでいたので見学しないで、トイレをお借りしただけで過ぎてしまった。(日を改めて見学に行ったが、有名な保永堂版東海道五十三次の他に、その後に出版された行書版、楷書版の東海道五十三次などの貴重な安藤広重の作品が保管・展示してある。版画でのカラー印刷の方法など、江戸時代のマスプリの技術もなかなか工夫されていたんだなと感嘆するものだった。旧東海道に興味のある者にとっては一見の価値はあると思う。)


 午後1時ごろ、本陣公園をでようとした時、ついに空は泣きだしてしまった。大粒の雨がふりだしたのだ。急いで傘をさして歩き始めたが、左手に弥次さん喜多さんの人形が目をひくレストラン・海の庭があったので昼食をとって雨宿りすることにした。このレストランはおもしろ宿場館と一所になっているようだったが昼飯にのみ気をとられていたので見学はしなかった。由比といえば桜えびの名産地とのことで、桜えびのメニューが沢山ならんでいる。確か桜えび御膳のようなものを食べたが、味は絶賛するほどではなかった。


 食事をして出ると雨は止んでいた。しかし空はどんよりしていて、また降りだしそうだったので先を急ぐことにした。由比川の手前に江戸後期の宿場の家並みの図が掲示されている。何故か歩道が木づくりになっている橋を渡ると、右手の店先に「万葉の田児の浦と薩垂峠」という看板があり、山部赤人の「田児の浦うち出てみれば」の歌は薩垂峠あたりで詠んだ歌であると書かれている。よく分からないがなる程と感心した。


 暫くいくと右手にJRの由比駅があらわれる。だいぶ由比宿とは離れているなと思った。国道よりも山側をいく旧街道では連子格子の趣のある家がときどきあらわれる。東倉沢には、江戸時代の名主の屋敷を無料休憩所として公開している小池邸がある。邸内には珍しい水琴窟がある。


 薩垂峠の手前の西倉沢では連子格子の家が建ち並び、左手には間の宿本陣跡の川島家があらわれる。その先、左手には官軍に追われた山岡鉄舟が逃げ込んだといわれる望嶽亭藤屋がある。右手の坂道の登り口には一里塚と薩垂峠の解説の掲示板がある。


 ここからがいよいよ薩垂峠だ。急な坂道を登っていくとその先はミカン畑とビワの畑だった。フルーティな道を更に進んでいくと雨が降ってきた。傘をさし、雨に煙る東名高速と国道一号線を眼下に見下ろしながら進む。薩垂峠の道標のある所まで登ると視界が開け、快晴ならば富士が見えそうだが、如何せん雨にけむってしまい、景色はイマイチだった。ここらあたりからからの眺望が広重の由比宿の絵に相当するのだが、と見えない富士の景色を想像しつつシャッターを押した。


 先に進んでいくと左手に駐車場が見え、道は二手に分かれていた。そこには東海自然歩道の標識があり、左は「薩垂峠ハイキングコース・駐車場」、右は「浜石岳」と書いてあった。直進すると「興津駅」の小さな標識もあったし、ガイドブックの図も直進のようになっていたので直進のコースを選択して進んだ。ガイドブックどおりに進んでいると思い本降りとなった雨の坂道を黙々と下って行った。車道と交差するところで左手に線路がみえるものと思っていたら見当たらないし、右に興津大橋があるはずなのにないし、遠くに新幹線が走っているが、ガイドブックにはそれがない。あれあれあれ!! 完全にパニックに陥って雨の中を歩き回ってしまった。そして、どうやら東名高速の北側にいるのではないかと分かり、車道を南へと進んでいくと左手に薩垂峠登り口の標識があった。ここに出るのが本来のルートだったのか、あの「駐車場」の標識に旧東海道の一言を付け加えてもらえればこんな失敗はしなかったのにと恨みを残しつつ、右手にある渡し場跡を目指して進んだ。


 後日(2004年5月)、再度この薩垂峠道に挑戦した。ビワの実に白い袋がかけられて、花が咲いているようだった。ミカン畑というよりもビワの畑と行った方があっていると思った。因縁のある「ハイキングコース・駐車場」への道を進み、展望台に登って眼下の東名高速と国道一号線、そして駿河湾と富士の景色は絶景というものだなと感嘆し、暫し薩垂峠の景色に染まってたたずんだ。当日は富士は霞んでみえなかったが・・・・。たぶんここらあたりの景色こそ広重の由比宿の絵にあたるところだなと思った。


 旧東海道もここでは、海沿いの崖の上の小道と表現するのが適当であり、左側は海へと落ちる急傾斜だ。とても風雨の強い日には歩けないと思った。旧東海道のいろいろ変化する様を味わうのがこの旅のおもしろいところだと確信した。さらに進んでいくと再び薩垂峠の標識があらわれる。その先のY字路を左手に進み、木に覆われた洞穴のような道を降りていくとお墓の中の道となる。しばらく進んで右折する。


 左手に常夜灯があらわれる。その先の右手のミラーの柱に、興津駅は左折との道標がある。左折する角には旧東海道と小さな標識がある。このときもミラーの標識を見落としてしまい、おかしいと戻ってきて発見した次第で、本当にスリリングな道だと実感した。いまでは舗装されている道だが、以前きた人はぬかるんだ道を歩いたとのことで、昔の人と同じで、今でも難義な道だった。民家の庭先を過ぎ、左折して進んでいくと、以前通った「薩垂峠登り口」の標識のある車道にでた。


 車道を左折して進むと興津川が右手に現れ、広場には川越遺跡の掲示板がある。また、興津川をわたる橋の手前の車道の左手に薩垂峠をこえる道は古代より数えて4コースあったことが掲示されている。以前に間違えた道は古代の道だったそうで、この日の道は参勤交代で使われた道とのことであった。両方を歩くことができて思いがけない得をした気分だった。


 興津大橋を渡り、橋の袂で右手におりて線路際の道となった旧街道にもどり、暫く歩くと国道一号線に合流して右手に進む。その先は興津宿である。



(16蒲原宿) (18興津宿)

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