52:石部宿(いしべ)
・天保14年の人口1606人、家数458軒、旅籠32軒、本陣2軒
・京都から江戸へ下る旅人が最初に宿泊する宿場で、「京立ち石部泊まり」といわれていた
・駅周辺には採石工場が多く、切り取られた山は無残な姿をさらし心が痛む

 石部---伊勢落---六地蔵---目川---草津 11.7km
 2003年11月1日、2日





 石部東の交差点の左手に常夜灯と石部宿の解説がある。石部宿の東の見附跡なのかなと思いつつ進む。小島本陣跡を見逃さないようにと進むと、左手に無料休憩所があった。中に入ってみると電気はついているが誰もいなかった。囲炉裏や石部宿の解説、官軍が来たときの様子などの絵があり、石部宿を手早くわかるようにできていたので、なるほどと感心した。ガイドブックには両者とも記載されていないので最近できたものの様である。休憩所は無料であることやトイレを拝借できるのでうれしい限りだ。町の人に感謝!


 そこを出てチヨット進んだ左手に小島本陣跡の石碑と解説があった。石碑がこじんまりと小さいのに哀愁をかんじた。先に進むと、右に曲がる角に田楽茶屋がみえる。広重の伊勢屋ここではないはずと思いつつ進む。その先で芭蕉句碑のある真明寺にいくのを忘れたことに気づいたが、引き返すのも面倒になりあきらめる。先に進むと左手にここより石部宿に入るとの標識などがある。西の見附だった所だろうなと解釈して進む。ここからは右手に線路が見え、左手には灰山という採石場がつづき、無残な山の姿に心が痛む。


 高速道路の立体交差をすぎ、しばらく進むと道は左にカーブする。曲がったすぐのところにお寺の門があり六地蔵跡というところだ。そして前方の道路では工事をしているようだが近づくと旧和中散本舗の大きな黒ぽい建物が見える。店の前で道路工事ではチョッと不運だなと思いつつシャッターを押した。店の前にあるこれまた大きな造りの家が大角家住宅隠居所だ。


 時計は4時をとうにすぎている。今日の終点の手原駅はもうすぐだと急ぐ。立体交差を過ぎてしばらくした先を右だ、が一つ手前を曲がってしまった。駅は改装中で草津よりのプレハブが仮駅舎だった。リックを下ろして、冷えたジュースを買い、喉を潤した。「ふうー、なんとうまいことか」と心で叫び一人で乾杯をした。駅員は若いおねいさん一人のようだが、乗降客は結構いた。石部宿には旅籠がなくなってしまったので、草津宿に旅籠を確保した。その草津の第一ホテルは駅からチョット距離があったが広々とした部屋で申し分なかった。


 翌2日、午前8時24分、手原駅に再び立ち、大津宿をめざして出発。先に進むと、大きな昔風の家が続き、表札の名字も同じ名字が続いている。どうやら付近はその一族の方々が住んでいるようだ。左にカーブして進むと右手に「足利義尚公鈎の陣所ゆかりの地」という石碑のある広場が現れる。足利義尚という名前は初耳だなという思いと、「鈎」の字が読めないので釣の陣所だったのかな・・・などと推測をして進んだ。(「鈎」という字は「まがり」と読み、この近辺の地名とのことである。地図を見ると確かにこの字の地名がある。) 
 しばらくすると、土手にぶつかる丁字路に出た。目川池の土手を登ってその向こうに川があるのを確認してもどった。すると「手原駅はこちらですか」とリックを背負った自分よりはちょっと若いようなおじさんに尋ねられたので、「ああ、そうですよ」と答えた。周りの地名も道もろくに知らない私だが、自信をもって自分が歩いて来た方向を指して答えた。チッピリうれしかった。


 T字路を右に、その先を左に、と進む。一里塚を右手に発見。そろそろここら辺に広重が石部宿として描いた伊勢屋跡があるはずだと思いキョロキョロしつつ歩くが無さそうだった。しかしその道も終わりとなる岡町の右カーブの50m手前当たりで、「あれ、見覚えがある赤い消火栓と電柱だ」と私のカンピュータがアラームを発した。あった伊勢屋跡発見。よくみると目立たないが立て札に「名代田楽茶屋 京伊勢屋跡」と書いてあった。当時は三軒の茶屋がこの地にあったとも書かれている。しばし広重の画を思い出しつつ感嘆して眺めた。ガイドブックにはこの伊勢屋跡が記されていないので、大きな発見にうきうきしつつデジカメのシャッター押した。


 さあ次は草津宿を目指して出発だ。右にカーブした先の道端の漆が紅く色づいていてきれいだった。さらに進むと右手に「史跡 老牛馬養生所跡」の石碑とその謂われを書いた立て札があった。その先にいくと国道一号線と交差する。ここを横断して進むとその先は草津宿だ。



(51水口宿) (53草津宿)

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