08:平塚宿(ひらつか)
・天保14年の人口2114人、家数443軒、旅籠54軒、本陣1軒
・平塚宿は本宿、平塚新宿からなり小規模の宿場だった
・相模川には渡船場が設けられ、常時6艘の船が運行されていた

 平塚---花水橋---高麗---山王町---大磯 2.9km
 2002年5月4日、2004年3月28日





 馬入橋を渡って暫く進むと、国道1号線は平塚宿の繁華街をバイパスする為に大きく右折している。街道はそのまま直進する。大手銀行が並ぶ大通りの交差点をそのまま直進して進む。昔の平塚宿の盛り場はもっと先にあったのだ。しばらく進み街道より一本左手に入った紅谷町郵便局の近辺に「お菊塚」があるとのことで探したが見つからなかった。かの有名な怪談「番長皿屋敷」のモデルになった人で、奉公先で家宝の皿を割った咎で手討ちにされたお菊さんの実家がここ平塚にあったのだ。かつて、そこは墓地だったとのことだ。(後日、再探索したら紅谷郵便局よりも一本南側の通に面した広場の隅にお菊塚はあった。お菊さんが殺された理由として、いろいろな説があったと記されている)


 先に進むと、右手のビルの壁に、大きく広重の平塚宿の絵が掲げられているのを発見。その下には江戸方見附跡の石垣がある。ところで歴史的な碑を見ている40?60代の二人づれの何組かとあった。この人たちも旧東海道を歩いていく人たちかなと思うと、自分の独り旅がなんとなく寂しく思えたが、負けずに元気をだして前進した。


 さらに進むと右手には脇本陣跡、高札場跡、本陣旧跡の碑がある。そして右手奥には平塚という地名の元となった「平塚の塚」といわれる碑があるが、寄り道することになるので足をのばさなかった。


 (後日、「平塚の塚」を探索に行ってみたら確かに平な塚があった)桓武天皇の孫の高見王の子である政子が関東へ下向する際にこの地で没した。857年のこと。でその墓がこの塚であり、塚の上が平だったことから、この地が「ひらつか」と呼ばれるようになったとのことだ。西組問屋場跡の前を通って街道は右手の一本奥の道に入り、その先で国道1号線と合流するが、私はそれを知らず、大通りを直進して国道と合流してしまった。


 この合流地点には平塚宿碑があるが、そこは当時の京方見附があった所だ。その先は景色が開け、大きな土饅頭のような山・高麗山が街道の先に見える。この景色が広重の描いた平塚宿の絵だ。当時の面影を忍びつつデジカメのシャッターを押した。国道を進む車がうまく途切れないので、快心のショットではなかったがまあまの絵がとれた。少しもどって左手にあった「なか卯」で、昼食をとることにした。連休で天気もいいので店内はドライブのお客でごったがえしていた。冷えた麦茶がうまかった。


 花水川を渡り、高麗山を右手にみつつ、高来神社前を通りすぎる。天智天皇の時代に滅亡した高句麗からこの地に渡来した人々がここで暮していたとのことだ。いつの日かじっくり見に来ることにして先を急ぐことにした。やがて、街道は国道と別れ化粧坂から右手の道に入っていく。松並木のあるこの付近は鎌倉時代には大磯宿の中心地だったとのことであり、曽我兄弟の兄の恋人だった虎御前が化粧するために使っていた井戸といわれる化粧井戸が民家の前に残っている。


 ガイドブックにはない一里塚跡を越え、JRの線路にぶつかったところで、右手の地下道を通って線路を越えていくのだが、山渓のガイドブックではそれが読み取れず、線路脇をどんどん進んでしまった。いくら行っても線路を越えられないのでおかしいと気付き、戻ってみてこの地下道を発見した。文字どおり無駄足が多くてこまった。地下道を抜けると松並木がつづき旧街道の雰囲気が漂っていた。大磯宿はその先だ。



(07藤沢宿) (09大磯宿)

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