32:新居宿(あらい)
・天保14年の人口3474人、家数797軒、旅籠26軒、本陣3軒
・1574年家康から今切渡船の運営権と諸役免除を言い渡され、以来宿場は渡船業務で潤った
・1600年に今切関所が大元屋敷跡に設置され、箱根関所と共に東海道の往来を取り締まった

 新居---浜名---新町---元町---白須賀 6.5km
 2003年3月29日、30日





 新居町駅前の公衆電話から予約していた旅籠に電話する。歩いて30分ぐらいかかると聞いて、驚いたがしょうがない。足がけっこう痛くなってきていたので実はガッカリ。しかし、時間もあるので今日の内に関所跡を見ておこうと更に進んでいくことにした。駅前の道を直進していくと浜名橋にでる。その橋の袂の左手に旅籠が見えた。あそこだったらいいのにな?と後悔しつつ進む。関所の手前には当時をしのばせるような造りのそば屋があった。寄っている暇はない。その先に関所が見えた。まず全体像をカメラに納めて、見学する入り口にいったら、時間が過ぎていて入場お断りとなっていた。しかたなく周りを見て旅籠にいくことにする。


 駅前まで戻り右折、その先で左折し新居弁天の付近まで歩くというのだ。だいぶ浜名湖岸に戻ることになる。途中で幸運にも、江戸時代初期の関所跡である大元屋敷跡を見ることができた。当初はここに関所があったが元禄12年の大風雨の被害でここから西に移転、その後の大地震で更にいまの関所跡へと移転したとのことである。


 17時30分ごろに旅籠・水明館に到着。浜名湖のそばまできたようで、木々の間から湖が見えていた。今はシーズンオフで通りには客が見あたらなかった。旅籠の部屋に上がってお茶を飲んでいると、女将さんと街道歩き旅の客の話になった。東京から一挙にずっと歩いて来たお客さんが泊まったが、ずっと話しをする人がいなくて人恋しかったと語っていたことや、その後に京都についたのでと礼状を送ってきたこととか、いろいろ話を聞いた。旧東海道を旅している人はいろいろいるんだなと実感した。今頃は別なお客さんに、私のことも話題になっているだろうか。翌30日、朝8時30分、旅籠の前で女将さんと記念にツーショトでカメラに納まった。旅籠では関所跡まで車で送りますからといってくれたので、これはありがたいと遠慮せずにお願いしてしまった。すべて歩くからと断ったお客さんも以前にはいたとのことだった。


 9時ちっと前だが関所の見学ができた。復元された面番所に入ると、当時の取り締まりの様子を示す役人の人形などや、別室では女改めの様子などが見て歩けるようになっていた。この新居の関所は徳川幕府が全国に設置した53の関所の中で、最大規模のもので「入り鉄砲に出女」の取り締まりを中心に、廻船の検閲なども行っていた。女改めは専用の長屋で「頭から爪先まで」行っていた。関所の東側が浜名湖に面しており船を降りるとそのまま関所に入らざるを得ない造りになっていたのである。広重の新居宿の絵でも、浜名湖の渡し船が関所のある渡船場に向かって進んでいく構図で描かれている。なお広重は荒井と表記しているが、遠州灘からの波が荒かったことから古来荒江、荒井などと書かれていたとのことである。


 さて関所跡をでると、その先に旅籠紀伊国屋資料館がある。紀州藩御用宿だった旅籠を復元したもので見学できるが、先を急ぐので入らなかった。街道はその先でT字路になるが、浜名湖競艇の看板が掛かった正面の家が飯田武兵衛本陣跡である。ガイドブックには、その右手前に疋田弥五郎本陣跡、左に疋田八郎兵衛本陣跡があると記されているが確認できていない。街道はここを左に折れて進む。この当たりが新居宿の中心地だった。しばらく進んでいくと左手に一里塚跡の石碑がある。


 その先で道は右折し左折する。よく曲がるなとおもったら宿場外れの枡形の所だった。再び国道一号線と合流して右折し、200m先のY字路を右手に進む。しぱらく歩くと松並木となるが松は小さく、近年造られた並木のようだ。やがて左手に明治天皇野立所跡が現れる。しばらく歩き休憩していたら、街道に面した家の小犬が鳴いていた。カメラを向けているとすまし顔になった。


 右手に火鎮神社を見て進んでいくとやがて元町に入り、蔵法寺の山門が右手に現れる。その300m先に右手に折れると登り坂・潮見坂があり民家が続いている。白須賀宿は1707年の大津波で壊滅的被害を受け、坂上の今の地に移転したとのことである。それで以前に宿場があったこの坂下付近を元町と読んでいるのだ。この坂を登った先が白須賀宿である。



(31舞坂宿) (33白須賀宿)

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