23:藤枝宿(ふじえだ)
・天保14年の人口4425人、家数1061軒、旅籠37軒、本陣2軒
・街道筋に連なる8カ村、その一部を宿に割り当てて宿場を構成
・宿内の橋の整備や本陣の改築・畳替えは田中藩の藩費で賄われていた

 藤枝---志太---上青島---道悦---島田 8.6km
 2002年11月10日、2012年1月6日





 国道一号線との交差点を渡った先に、東木戸跡があるとのことで探しつつ歩いたが発見できなかった。見過ごしてしまったらしいが、もどって探すのが億劫なのでそのまま進んだ。ガイドブックには載っていないが成田不動の手前に領主番所跡が現れる。その先の右手にきらびやかな成田不動がある。あまりにも現代的なのでカメラを向けなかった。まもなく屋根のついた歩道が続く商店街となる。広重の絵では問屋場の様子が描かれているがその場所はガイドブックにも載っていない。また、本陣跡などもなく街道筋の面影はほとんど無くなっている。


 商店街の途中の左手に白子町の由来が掲示されている。それによると、本能寺の変に際して伊賀越えをして逃げた徳川家康がこの地で野武士に追われていたのを百姓の孫三が助け、そのことから後に家康に諸役免除の朱印を与えられ、宿場は発展したとのことである。商店街を進んでいくとDパックを背負った高年者の一団が歩いていた。同じような出で立ちなのでどこまで行くんですかと訪ねてみたら、蓮華寺までとのことだった。記念にカメラに納めて先を急いだ。蓮生寺の前を通りすぎ、その先の左手の大慶寺の久遠の松をみることにした。日蓮が植えた松で樹齢700年を越えるものといわれている。見学したついでに境内にトイレあったのでお借りする。


 2012年1月6日、本陣跡を探して再び藤枝宿を尋ねた。大慶寺の先の商店街のアーケイドの右手には宿場案内図が掲示されており本陣跡と問屋場跡が示されている。アーケイドの右手を先に進むと下本陣跡のタイルが現れる。そこは柴田医院駐車場だ。本陣についての特別な解説はない。


 アーケイドの右手をさらに進むと上本陣跡のタイルが現れる。そこはNIKONIKOYAという衣料品屋さんの所だ。本陣跡についての案内板がないのが寂しい。その先に進むと交番の前には問屋場跡のタイルが現れ、広重の藤枝宿の問屋場の絵が表示されている。往時の繁華街も白子町あたりかと思っていたので「ええ?ここだったのか」と驚き、認識を新たにした。(追記完)


 宿場を過ぎ、瀬戸川を渡り、国道一号線を横切り、暫く進むと右手に古東海道跡の石碑がある。旧東海道も以前は大水となったりするためもっと山側を通っていたとのことである。その先の石野モータースの前にはこのあたりの名物だった染飯茶屋跡の石碑がある。東光寺谷川を渡って進んでいくと松並木があらわれ、途中の左手には上青島の一里塚跡がたっている。


 やがて国道一号線と合流して進む。六合の交差点で右手の道に入るが、そこで突然、走ってきた車がとまりドライバーから「島田高校はどこか」と訪ねられた。とっさに地図を見て「道の左手にあるが」と答えてしまった。その車はそのまま進んでいったがよく見ると交差点の手前にその高校があるので間違って教えてしまった。「分からない」と答えたほうがよかったかなと反省。再び国道一号線と合流して進み、橋をわたった先のY字路を直進して進み国道一号線と分かれる。その先は島田宿だ。



(22岡部宿) (24島田宿)

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