04:神奈川宿(かながわ)
・天保14年の人口5793人、家数1341軒、旅籠58軒、本陣2軒
・東は長延寺跡から、西は台町まで、海に面して旅籠が並ぶ長い宿場
・台町付近の茶屋からの眺めは「浪うちぎわの風景いたってよし」と評判だった
神奈川---楠町---浅間町---天王町---保土ヶ谷 4.9km
2002年5月3日、7月6日
右手先に仲木戸駅の見える交差点で右折し、第一京浜より2つ奥の通りで左折して進んでいくと右手に金蔵院という古刹が現れる。その通りを進んでいくと、復元された高札場が登場する。また、開港時には宣教師ヘボンが住んでいた成仏寺もある。街道筋の面影が残る通りだ。 |
宿場の通りを進んでいくと滝の川に突き当たるので左折して高速道路下の第一京浜にもどる。街道を進んでいくと右手に滝の川という看板がかかった橋があらわれる。ここが神奈川宿の中心地だった場所だ。橋の手前、右手には神奈川町本陣があり、橋の先、左手には青木町本陣があったとのことである。いまは神奈川公園手前の道路に「神奈川町本陣と青木町本陣」跡を示す碑が立っているのみである。今の横浜駅繁華街しか知らない私にとっては、ビルと高速道路しかないこの地が宿場だったとは驚きだった。 |
さらに先に進むと、街道は右にカーブしてゆるい坂道を登っていく。坂の途中の右手には幕末の開港時にイギリス士官の宿舎だった普門寺やフランス公使館とされた甚行寺がある。両側のビルの切り通しをこえると右手に京浜急行の神奈川駅をみつつ、国道1号線を右折してJR東海道をわたる青木橋をとおり、アメリカ領事館となっていた本覚寺をガケの上に見つつ信号を渡り、左折し右折して東急東横線のガード下へと進む。 |
ガード下を通過すると台町の坂下へとでる。右手に金刀比羅神社 があるが、ここに日本橋から七つ目の一里塚跡があったことが記されている。台町へと続くこの坂が広重の描いた神奈川宿の風景であったが、今は絵のような舟も海も左手には見えない。残念だ。しかし、この坂を進んでいくと左手に田中家という料亭が現れるが、絵の中の「さくらや」という店にあたるとのことだ。それを聞くと街道の面影を感じてくる。その先に行くと、右手に「神奈川台の関門跡」の碑があらわれる。開港後に何人かの外国人が殺傷されるという事件が発生したので、警備の為に宿場の要所に 関門をつくり、その西門がこの地にあったことが記されている。 |
台町を過ぎて進んでいくと、反町から横浜に入る大通りを渡る陸橋が現れる。この陸橋を渡 って進むと左手に保土ヶ谷へと続く市道青木浅間線(環状1号)通りが見える。この大通りに出ずに右手に進み、高速道路下を道はゆるやかに左へカーブし、人通りも少ない 住宅街の道となっている。道幅が普通の住宅街の倍もあるところに旧街道の面影が残っているようである。(ところが、2004年になって台町の坂下で環状1号につながるこの箇所から浅間下の新横浜通りまではこの大通りが旧東海道だったことが浮浪雲さんのHPのBBSに載っていた。現地に再び立って見ると、環状1号線の右側歩道には旧東海道のマークが刻印されており、浅間下の交差点にはその説明と街道図が掲示されていた。う? むあの裏通りは単なる裏通りだったのか・・・・講談社ガイドブックの第一のミスだった)。 |
新横浜通りという大通りを歩道橋で越えると環状1号に近い左手の商店街の小道が旧街道である。道には旧東海道のマークが埋め込まれている。途中の八王子道との追分には道標がある(2004年に通ったら立派な道標に変わっていた。以前は小さな板切れだったような・・・・)。ついに日が暮れてきた。にぎやかな松原商店街を突き進んでいき、八王子街道(国道16号線)を越えるとその先は保土ヶ谷宿だ。 |