30:浜松宿(はままつ)
・天保14年の人口5964人、家数1622軒、旅籠94軒、本陣6軒
・家康の遠州支配の拠点であり、岡崎と駿府を結ぶ伝馬制の基礎となった地である
・特産品の遠州木綿は1758年に井上氏が藩主となってから結城紬を模して生産をはじめたもの

 浜松---東若林町---高塚町---坪井町---舞坂 10.8km
 2003年3月29日





 10時30分、浜松駅前に立つ。前回は夜になってしまったので駅前の様子がわからなったが、昼間見るとモダンなビルが立ち並び東京とさほどかわらず、風情のない景色だった。チット残念な感じだ。見付宿側から見たアクトタワーは塔のように見えたが、それは横から見ていたからで、横長の高層ビルだったのだ。広重の浜松宿の絵は水田越しに遠く城が見えるものだが、場所は馬込橋手前の天神町付近ではといわれている。がしかし、はっきりしないともいわれている。前回、街道から外れた地点にもどり京に向かって歩き始める。板屋町の歩道橋上から駅前方向をみると工事中のところが結構ある。駅前は今、再開発中でさらにモダンな建物が増えるようだ。


 遠州鉄道のガードをくぐった先の信号で右折して浜松城公園にいってみることにした。桜が満開となって咲いている町中をとおり浜松城につく。休日なので家族連れの花見客などが多かった。カメラを構え、天守閣と満開の桜の構図でバッチリ絵になるものが撮れた。コンパクトカメラではもったいないようなシャッターチャンスだったなと感動。公園内の広場では桜の下で宴会も始まっており、ワイワイとにぎやかだった。トイレも水もあるので、私も宴会客にまぎれて、桜の木の下で昼食をとることにした。浜松城は本拠地の岡崎城を長男の信康に任せた家康が1570年に築いて移りすんだ城であり、三方原の合戦で破れて逃げ帰った城でもある。そのとき武田軍は浜松城を無視し京を目指して進軍したということだ。なお、浜松城には天守は一度も造られなかったそうで、今ある天守は1985年に造られた模擬天守である。


 城を後にして街道にもどる。連尺町の交差点の手前(城側)には、かっては大手門があったが今はない。街道はこのビル街を進む。300m位先の右手に川口本陣跡がある。その先の街道の左手には梅屋本陣跡があるそうだが、車道を横断するのがたいへんなので未確認。しばらく進み塩町の先で右折する手前に泣き子地蔵尊がある。


 JRの新幹線と東海道線のガードをくぐり直進して進んでいくと、街道が右へ曲がる所に道を挟んだ両側に二つの御堂がある。北堂は藤原秀衡の愛妾が京に向かう途中で、京にいる秀衡が死んだという誤報を聞いて建立したもの。南側は京から戻る途中に秀衡がその話を聞いて建立したものとのことだ。1124?5年の出来事だ。二つ御堂を後にして進んでいくと歩道に財布が落ちていた。すぐ近くに届けるような店がないので見ないことにして先を急いだ。すると前方から雲水が歩いてきた。とっさにデジカメに納めた。近くで挨拶したら外国人だった。すっかり日本文化に溶け込んでいる人だなと感心した。


 車道となり、直進するだけの単調な街道を進んでいくと右手に諏訪神社と高札場跡が現れる。その先には堀江領境界石の標柱、さらにその先には旅人に麦飯を喜捨して麦飯長者と呼ばれた小野田五郎兵衛の屋敷跡を示す標柱がある。右手に遠州製作所の工場がある所でY字路となるが、篠原の道標に従って直進する。


 やがて右手に東本願寺、西本願寺と続き、春日神社があらわれる。そしてその先にすばらしい舞坂の松並木があらわれる。700m、330本の松並木だ。


 並木道になるとなぜか足が弾んで、心までウキウキしてくるから不思議だ。これで並木の外ではなく中を歩けたら感無量となるななどと贅沢なことを思ってしまった。いつの日にかに期待したい。松並木を抜けた所にトイレと休憩所があり、浪小僧の像があった。トイレ休憩をして、目の前を走る国道を横断するとその先は舞坂宿だ。



(29見付宿) (31舞坂宿)

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