45:石薬師宿(いしやくし)
・天保14年の人口991人、家数241軒、旅籠15軒、本陣3軒
・石薬師宿は1616年に設けられ、当初は鈴鹿川の近くにあったが水害を避けて当地に移ったといわれている
・田園地帯でもあり休憩地の役割が強く、宿泊客が少なかったので宿の経営は苦しかった

 石薬師---一里塚跡---庄野 2.7km
 2003年6月7日、10月3日





 国道から分かれて石薬師宿に入るゆるい坂道を進む。前方をおばあさんと孫娘が楽しそうに歩いていた。坂道を登って宿場内に入ると左手の民家の塀に東海道・石薬師宿の看板が架かっている。その先の右手に小澤本陣跡が現れる。ここの宿帳にはあの赤穂の藩主・浅野内匠頭の名も書かれていたとのことである。


 その先の小学校の門前には卯の花が咲いていた。更に先に進むと「夏は来ぬ」の作詞者であり、歌人・国文学者でもあった佐佐木信綱の生家と資料館がある。「卯の花の匂う垣根に・・・・」の歌は知っていたが卯の花がどんな花かは知らなかったので、ああこの花かと納得し、作詞者とともに認識を新たにした。


 国道一号線を橋で渡ると、その先の右手に石薬師寺が現れる。国道一号線の騒音が煩いが誰もいないひっそりとした山門をデジカメに納める。しかし広重の石薬師宿の絵の構図と違うなと思いつつ街道にもどり、坂道を下っていくと坂下にも山門があった。その山門に正面から突き当たる道から見た構図が広重の絵の構図になるなと思いデジカメにに納めた。絵の中にに登場する畷道は住宅地の舗装道路に変貌していた。この石薬師寺は聖武天皇の時代に開かれた古刹だが戦国時代に消失、その後再建されたものである。寺の本尊は弘法大師が素手で彫ったという石仏とのことだ。境内の見学は時間がないので省略だ。


 石薬師寺を後にして先へ進むと、橋を渡った左手、緑の繁った木の下に石薬師の一里塚跡の碑が現れる。ここから先はガイドブックには二つのルートが書かれており「畑の中の農道を憶測して進む」とあるので、遠回りしない線路よりの道をいくことにして、どう行くのかと地図と現場の地形(畑ではなく水田だ)を見比べていると、ふいに隣から「どちらに行くんだね」とおじさん(60才位)に尋ねられた。加佐登駅にいくつもりだというと、「それなら、まっすぐにはいけないので、左のガードを潜って右折し、線路沿いに進んでいけばいいんだ」と教えてくれた。街道はまっすぐ走っていたが線路で切れてしまったようだ。


 お礼をいってガードを潜って右手に進むと、そのおじさんは犬をつれて川沿いの道を散歩している様子だった。線路沿いの道で、広重の絵の庄野の白雨はこのあたりかななどと葦の茂みにデジカメを向けてトロトロ歩いていたら、国道を潜るガード付近でさっきのおじさんに遭遇。再びおじさんは、「このガードを潜って進み、その先の橋を渡り、途中で右に入れば駅への近道になる」と教えてくれた。水田の中のガードを潜り、橋をわたった所でおじさんにお礼を言って分かれた。しかし、おじさんには悪いが近道には進まず旧街道をなぞって進み、国道一号線に合流し、しばらく国道を進み、そして国道一号線と分かれ加佐登駅への道を下っていった。踏み切りを渡ると、その先の左手には加佐登駅が待っていた。


 午後6時15分、加佐登駅に到着。おお、ついに到着したぞ!もう歩かなくてすむぞ!と叫びたい気持ちだった。駅まえの売店に入って刺激のあるコーラを飲み干し、チョコを買ってかじった。それにしても最後の所で、地元のおじさんに道を教えられたお蔭で道に迷わずに、しかも元気もでてスムーズに農道となった旧街道を歩けたことに感謝したい。ありがとうございました!ここからJR関西本線にのり、名古屋からはおなじみとなった新幹線で帰る。痛い足を引きずりながらも、今度はあの加佐登駅から旅が始まるんだなと思うと、足の痛さも忘れてわくわくしてくる。新幹線で飲むビールは実に美味い!


 10月3日10時30分、再び加佐登駅前に立つ。踏み切りを越えて旧街道である国道一号線にもどる。国道の左手には竹藪が所々にあり、広重の描いた庄野宿の舞台はこの当たりかなと想像しつつ歩く。しかし交通量が多く、中央に分離帯もあるので横断などは出来ず、また右手には工場が広がっており、豊かな自然のイメージとはチョット違っていた。右手の工場の切れた所で右折すると、その先は庄野宿だ。



(44四日市宿) (46庄野宿)

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