51:水口宿(みなくち)
・天保14年の人口2692人、家数692軒、旅籠41軒、本陣1軒
・1585年、豊臣秀吉の命で家臣の中村一氏が水口岡山城を築くとともに、宿場なども整備した
・1634年、徳川家光の上洛に伴い、御茶屋として築かれた宿所が、その後水口城となった
水口---北脇---三雲---甲西---石部 13.7km
2003年10月4日、5日、11月1日
ゆるやかな坂道を100m位進むと右手に冠木門が現れる。ここが水口宿の東見付跡だ。17時40分、陽が沈んでしまったので薄暗い。大きな通りを横断して進むと本陣跡が左手にあるはずなのだが見当たらない。その先にある高札場跡が現れる。付近の方に本陣跡を伺ったら、「それらしいものはもっと手前にあるが、案内しましょうか」と教えてくれた。もどるのがいやになり、お礼をいって断り、先に進むことにした。高札場跡の所で右に折れて進む。宿場内を通過する通りは三筋あって、ここで右折すると三筋の中の真ん中の道を進むことになる。しばらく進んでいくと左手に問屋場跡の石碑がある。さらに進んでいくと街道は家根のあるアーケード街となる。四日市宿と同じだなと眺めながら進むが、店は既にシャッターを下ろしているので「18時前じゃ、いくらなんでも早すぎない!」と独り言をいいつつ、ときどき現れる古い家屋を眺める。 |
近江鉄道水口石橋駅の手前で、三筋の通りが一つに合流するのだが、その箇所には赤い置き時計がある。18時になってしまったので、宿場内見学は明日にして、とにかくホテルに急ぐことにした。今夜の旅籠は、宿場の外れにあるホテルニューミフクだ。初めての土地で日も暮れてしまったのでどうなることやらと案じていたが、以外とすんなり到着することができた。このホテルは前日の関宿の旅籠に比べ、料金は同じ位でもはるかに快適な宿だった。 |
翌5日、9時30分、宿を出て宿場内を探索する。東側の見付け近くに戻り西に進んでいくと、竹垣だけが通りに面している所に本陣跡があった。見逃し安いので注意だ。中に入ると本陣跡の石碑があり、三軒分の間口のある広大なものだったこと、経営は代々鵜飼氏があたってきたが、明治天皇の宿泊をもって歴史を閉じ、その後撤去されたことが記されている。宿場内を先に進み、昨夜通過した高札場跡を右折して行くと連子格子の家が並び往時の風景を醸しだしている。 |
街道から外れて右手の大岡寺に入り芭蕉の句碑をみる。「命ふたつの中にいきたる桜かな」と詠んでいるが、芭蕉は大岡寺ではなく蓮華寺に滞在してこの句を詠んだ。大岡寺の方が旅人に親しまれていたので句碑を大岡寺に立てたとのことである。 |
本町商店街のアーケード内には連子格子の家もあり、街道筋の面影を残している。三筋の通りが合流する地点には赤い置き時計がある。水口石橋駅の先には長屋門のある水口中部コミュニティセンターがあり休憩ができる。 |
その先で街道は鍵型に曲がるが、その途中には往時の面影を残している家が現れる。更に進むと大通りにでるが、そこで左に折れて進むと左手に水口藩主加藤家の氏神である藤栄神社、その先の右手には石垣と白壁が美しい水口城が現れる。もとは将軍家光の上洛にともなって造られた御茶屋(宿泊所)だったが、その後水口藩が成立し加藤氏の居城となっていた城だ。現在、城の中は資料館となっている。これで水口宿を探索し終えたので、水口石橋駅から近江鉄道で帰途についた。秋の日差しの中を走る近江鉄道は、高校生の戯れを乗せて賑やかに静かに走っていく。 |
11月1日午前11時、再び水口石橋駅前に立つ。東海道歩きもついに最後のはじまりとなった。まずは石部宿をめざして出発だ。前回きたときに水口宿の主要なポイントは見ているのでどんどん歩くことにした。街道は水口城へつづく大道りを横切って進み、鍵型の道を右に曲がるその角に水口の力石があった。ちょっと触ってみたが、ビクともするものではなかった。しばらくいくと右手の神社の角に林口一里塚跡がある。左にまがり、また右にまがって水口宿を後にする。 |
ここからはほぼ一直線につづく道だ。広重が水口宿として描いた北脇をめざして進むと北脇畷の標識が左手にある。しばらくいくと北脇の十字路だ。広重の絵はここらかなと思いをはせつつデジカメのシャッター押してみた。 |
さらに進んでいくと二股の道だが、左手は橋でそのたもとに東海道の表示があるので橋をわたる。しばらく進むと右手に竹で囲まれた場所が見える。泉の一里塚だ。当時はもっと野洲川よりのところにあったものをここに移したと解説があった。 |
なるほどと思いつつ進むと、目前に大きな常夜灯と冠木門が飛び込んできた。むむ、何だと地図をみると横田渡し跡と書いてある。広場でしばしその解説を読む。昔は大井川と同様にこの横田川(野洲川)も常設の橋の設置は認められず、舟か、冬季は土橋を架けてわたっていたとのである。対岸をのぞいてみると、対岸には藪があるだけでどうやら道はなくなっているようだ。一休みしてから右手に回って橋をわたろうと道路の左側の歩道を進むと、橋をわたる道と直進する道の分かれ目に歩道橋があり道路の右側にわたれるようになっていた。橋をわたるには関係ないと判断したが、橋の間際になると橋の歩道は右側になっていた。いつものことだが、歩行者無視の歩道と歩道橋の作り方だ。しょうがないと車の途切れるのをまって走って国道をわたり、横田橋をわたった。 |
橋のたもとで右に降りて左へまがると駅前の道にでる。ここでタイミングよく弁当が売られていたので寿司弁当を買った。食べるまえに天保義民の碑を見ておこうと、常夜灯から見えた対岸の方に歩いたがそれらしいものが見えない。三雲駅の近くの踏み切りのところをたぶん山側にのぼっていくのではないかとガイドブックから推測して、歩いていくと天保義民の碑がさらに左手の上にあるとの看板があった。坂道を登っていくと、天保義民の碑の広場があり、トイレもあった。解説をよむと、1842年の秋に農民一揆を起こして悪どい地検を阻止したが、80余命への厳しい取り調べが行われた。しかし、誰も口をわらなかったが、11名が江戸送りとなってしまった。それでも死ぬまで地検の悪どさを訴えたとのことである。その20年後には明治維新となり大赦となったが、多くの人達は帰らぬ人となっていたようだ・・・・頭の下がる思いがした(合掌!)。秋の日を浴びながらのんびり寿司弁当を食い、茶も飲んで元気をとり戻した。石部宿めざして再び出発だ。 |
三雲駅の前を通過してどんどん進む。すると遠方に大砂川のトンネルが見えてきた。「へえーこれが天井川か」しばし眺める。道路の上を川が流れるという自然の摂理があるのかと腑に落ちないものを感じた。トンネルを潜って先にいくと、左手に弘法杉の看板がある。振り返って見上げると土手の上に木が繁っていた。登っていくと杉の大木があった。川には水はなかったが、川幅1m強の小川が続いていた。不思議な思いを持ちつつ進む。再びトンネルだ、今度は由良谷川のトンネルを潜った。 |
秋の日を浴びつつ進むと前方に小豆色ののれんが下がった北島酒造がみえた。1805年の創業とのことだ。トボトボと一人歩いているうちに、ふっと目に止まったのだがこの近辺の家の柱が小豆色であることに気づいた。この先ずっと木造の家ではこのような色が出現してくるので不思議だった。サビ止めの色かな?と思案しつつ進んでいくと石部宿の手前となっていた。(その後の調査で、ベンガラという木の腐敗防止材の色であることが分かった。関西では一般的なようだ。) |