33:白須賀宿(しらすが)
・天保14年の人口2704人、家数613軒、旅籠27軒、本陣1軒
・”白い砂州の上の集落”という意味で白須賀と呼ばれ、鎌倉時代以降の和歌に登場している地である
・1707年の大津波で壊滅し、翌年坂上の地に移った

 白須賀---境橋---豊清町---二川 5.7km
 2003年3月30日、2012年1月6日





 潮見坂を登りつつ途中から振り返ると遠州灘が遠くに見え、当時の旅人もこうして振り返っては一息ついたのだろうなと思った。さらに坂を進んでいき左カーブ、右カーブと登っていくと潮見坂の立て札が現れる。西国からの旅人はここで遠州灘の大海原を初めて見て感動するということが書かれており、広重の白須賀宿の絵はこの付近を描いているといっている。


 しばらく歩くと左手に白須賀宿マップ掲示板と眺望のいい休憩所がある。足も痛くなってきているので、遠州灘を眺め一息つくことにした。午前中に足の痛みが始まるとはこのの先が心配になってきたがどうしょうもない。ひたすら頑張らなければと意を決する。歩きだすとその先は白須賀宿だ。道は途中で枡形に曲がるが、これを曲尺手(かねんて)と呼び、その解説板が立っている。宿場内はひっそりとしている。今風の商店街というような感じではなく、ただ民家が並んでいるといった感じだ。宿場としては小さいため、大名などは、手前の浜松や舞坂、あるいはその先の赤坂や御油に泊まり、白須賀宿は素通りしていたとのことである。


 宿場内を進んでいくと右手に脇本陣跡があった。その手前には本陣跡があるはずなのだが見逃したのか?脇本陣跡の石碑の近くには、ここが白須賀宿であることを示す道標がある。その先の十字路が宿場の中央であり、その角には国学者夏目みか麿の屋敷跡がある。また200m先の左右には、宿場時代に火災の延焼を防ぐために植えた槙の樹がある。


 2012年1月6日、本陣跡を探して再び白須賀宿を尋ねた。宿場内を進み交差点の信号が見える所まで来ると、右手の美容院の手前に本陣跡の案内板が現れる。そこにはこの地に大村家の本陣があったと記されている。以前には石碑だけだったのでうっかり見過ごしてしまったが今は案内板もあり、これなら私のように見過ごすこともないだろうと思った。その先に進むと以前と変わらずに脇本陣跡も健在だった。(追記完)


 やがて街道は左にカーブし、宿場を後にして42号線と合流する。合流した先あたりを当時は猿ケ馬場と読んでいた。ここに名物の柏餅を売る茶店があり、広重はこの茶店とその先の小松の広がる風景を二川宿として描いている。ここから先は二川宿まで松並木が続いていたが民家はなかったとのことである。なお、猿ケ馬場の地名の由来は、秀吉が小田原城攻めにきた時にここの茶店であん入り餅を食べた。その時の茶店のお婆の顔が猿に似ていたので「猿が婆の勝和餅」と秀吉が命名し、いつしか猿ケ馬場の柏餅と変わっていったといわれている。猿ケ馬場を後にして街道を進んでいくと遠江と三河の国境であった境川にかかる境橋を渡る。


 やがて街道は国道一号線と合流することになる。大型トラックが爆音をたてて走っている国道の歩道をもくもくと歩くことになる。国道脇には畑が広がっているので時おり強風が吹きつけ、騒音もうるさく、おまけに足も痛いしで、のんびりした気分など一つもない。やがて街道の先の方を歩いていく二人づれが目に入った。Dパックを背負っているところからみると夫婦の旅人のようであった。約一時間、国道一号線を歩くと左手に神鋼電機の大きな工場が現れる。右手には新幹線の高架が接近してくるが、最接近した所で、前を歩いていた二人づれが右折して国道と分かれていった。私もそれに続き、東海道本線の踏み切りを通過しその先を左折する。その先は二川宿だ。



(32新居宿) (34二川宿)

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