24:島田宿(しまだ)
・天保14年の人口6727人、家数1461軒、旅籠48軒、本陣3軒
・宿駅制度の制定以前の大井川は、各人が浅瀬を選んで渡っていた
・江戸時代になっても川越賃が決まっていなかったが、その後川越制度が確立された

 島田---向島町---河原---大井川橋---金谷 3.9km
 2002年11月10日、2012年1月6日





 本通7あたりの右手に一里塚跡があるとガイドブックに書いてあったが発見できなかった。昔の宿場であった繁華街は、この日は島田産業まつりでにぎわっていた。メーンストリートでは若い女子衆が髷をつけ浴衣姿で踊っていた。今回は季節がらか、駿府宿でも島田宿でもめったに見れないものに遭遇して儲けものだと思った。しかし、足の豆はそろそろガマンの限界に近づいているらしく、歩くたびに痛くなってきていた。痛さを堪えて金谷宿の先までいけるか心配になってきた。足を休めるのと昼食をとることを兼ねて、街道脇のそば屋に入った。七五三で大井神社にお参りにきたお客さんもいて混んでいたが席はあった。しかし、休んだ後に動き出すと足の痛みは倍増するようで辛かった。足の痛みは島田宿で寄り道して歩き回る余裕を与えてくれなかったが、本陣跡や高札場跡などの街道筋の面影が無いのは残念だった。


 2012年1月6日、本陣跡を探して再び島田宿を尋ねた。本通りを進んでいくと本通4丁目で右手に白い時計塔が現れる。左手下の案内板には島田宿には置塩家下本陣、大久保家中本陣、村松家上本陣があったことが地図つきで記されている。それによるとここが置塩家の下本陣跡で、その先の天野呉服店の所が中本陣跡であり、その先のホテル三布袋の所が上本陣跡であると示されている。右手に並んで隣り合っていたとはめずらしい配置だなと関心した。


 実際に右手を進んで行くと、天野呉服店のところには中本陣跡の石碑がある。また、その先に進むとホテル三布袋のところには上本陣跡の石碑があった。なお、通りの反対側の静岡銀行の前には如舟・芭蕉連歌句碑がある。「やはらかにたけよ今年の手作麦」という如舟の句に、芭蕉が「田植えと共に旅の朝起き」と応えたとのことだ。(追記完)


 大井神社も大善寺も見ずに大通りの街道を進んでいくと、左手に大きな製紙工場が現れる。必死で歩いているので地図を確認しないまま直進してしまった。500m位進んでから、さっきの工場の脇の左手の道へ入るべきだったのだと気がついたが、足が痛くてもどる気がしなかった。愕然としつつ脇道を探して旧街道に向かうことにした。何とか脇道を通って大井川川越遺跡のある街道にたどりつけた。


 当時の家並みが再現されていて、いまでも川越人夫が現れそうな雰囲気が漂っていた。川札を販売していた川会所や川越人夫が待機していたいくつもの番宿などが並んでいて、大勢の川越人夫が目の前の大井川で働いている様子が思い浮かぶようだった。「馬方はしらじ時雨の大井川」という芭蕉の句碑もあった。広重も島田宿の絵としてこの大井川の川越えをの様子を俯瞰する構図で描いている。


 しばし足の痛みを忘れて川越の思いに浸っていたが、いつまでもそうしてはいられない。川越遺跡から大井川橋をわたる道まで500mもどり、大井川橋の袂に立つ。橋には歩道がついているので安心して歩けるが、延々と続いている(約1km)のを見て、とにかく金谷宿まで頑張って行かなければと自分に言い聞かせて歩いた。これがあの「越すにこされぬ大井川」と歌にまでうたわれた大井川かとその雰囲気を味わいつつ進んだ。


 金谷宿側について橋を振りかえって見ても誰も歩いてくる人はいなかった。一人位いてもいいのになと思いつつ、橋の袂を左に曲がり島田宿側をながめてみるが、こちら側は広い河川敷が見えるだけだった。橋の袂から200m先を右折して進むとその先は金谷宿だ。



(23藤枝宿) (25金谷宿)

ホーム東海道>島田宿