25:金谷宿(かなや)
・天保14年の人口4271人、家数1004軒、旅籠51軒、本陣3軒
・中村一氏による天正の瀬直し(1590年)で大井川は東に移動され、河畔の金谷の土地を確保
・川会所など島田宿と同様の施設、350人の川越人足、200人の岡働きで川越業務を遂行
金谷---牧の原---菊川---新茶屋---日坂 6.5km
2002年11月10日、2003年1月11日、2012年1月6日
大井川の堤を200m位進み、右折して土手を下って進むと小川にかかる橋の手前、左側に川越の跡を示す掲示板や石碑と金谷宿の入り口を示す道標が現れる。足の痛みで見て回る気力もなくなっていたが、島田宿側のような川越の施設は残っていないのでチョット寂しい。先に進むと大井川鉄道の踏み切りを渡る。ここの左手200m先に大泥棒・日本左衛門の首塚があるとガイドブックに書かれているが、足が悲鳴をあげているので寄り道はしないことにした。 |
大代川を渡って進んでいくと道はゆるい登り坂となる。坂の右手に佐塚屋本陣跡と柏屋本陣跡があるのだが、足の悲鳴にかき消され、ただもくもくと歩いてしまったので確認するのを忘れた。旧東海道は金谷駅の手前でガード下を潜って左手にいくのだが、その角に一里塚跡と道標がある。ガード下を通過して駅の裏がわにでると銀杏の木が秋の午後の陽を浴びて黄金色に輝いていた。ビューテフル!。しばし足の痛さを忘れてカメラを構えた。金谷宿の秋の景色を心に焼き付けた後、ガード下をもどってJR金谷駅へと向かった。 |
駅周辺は大勢のハイカーでごった返していた。大井川側は閑散としていたのに、子供たちも含め、総勢200人位いたのではないかと思う人出だった。どういうコースがあるのかは知らないが地元では人気のある紅葉シーズンのコースなんだなと、駅前広場にたどりつき、汗を拭きつつ思いをめぐらした。帰りは掛川から新幹線で帰ることにした。新幹線の中でビールを飲みつつ、一日目に次郎長の墓を見るなど歩きすぎたのが二日目に響いたな?と欲張りを反省。 |
2012年1月6日、本陣跡を探して再び金谷宿を尋ねた。街道を進み清水橋を渡って暫く進んでいくと右手に佐塚書店が現れる。店の左手隅にはここが佐塚屋本陣跡であることを示す標識が立っている。その先に進むとJAおおいがわの看板があり、そこには柏屋本陣跡の案内板が現れる。柏屋は徳川家康より屋敷を賜り本陣の経営と名主を努めてきたとのことである。なお、金谷宿にはもう一つ山田屋本陣があったと記されている。 |
宿場内を進んでいくと右手にお七里役所跡の案内板が現れる。ここは徳川御三家・紀州藩の飛脚小屋のあった所で、和歌山まで8日で常便を運んでいたと解説されている。その先に進むと左手の一里塚跡の隣には当時の宿場内の配置を示す絵図が示されている。以前と比べて分かりやすくなったな?と感心する。(追記完) |
1月11日、午前11時ちょうどに駅前の広場に立つ。前回の11月には大勢の人でごった返していたことが信じられないほど閑散としていた。1月早々に普通の人が遊びに来るところではないなと自己納得しつつ歩き始める。駅前の道を下りガードを潜って坂道を登っていくと新道にぶつかる。これを横断して進むのだが進行方向には石畳入り口の標識がある。この石畳は地元の人達が石を持ち寄って復活させたものだという。綺麗に整備された石畳の坂なので登りやすい。感謝して石畳を歩く。途中に、日本左衛門が泥棒の為に着替えた庚申堂や、暗く鬱蒼とした箇所もある。 |
坂を登りきると明るい茶畑がど?んと開け、平坦な道となる。この牧ノ原台地の茶畑は旧幕府の家臣たちが窮乏生活から抜け出す為に明治になって開拓したもので、地元民も加わってお茶の生産を始めたが、困難の連続で、軌道にのるまでには多大な苦労をしたとのことである。その甲斐あって静岡は全国一のお茶の生産地になったといわれている。静岡のお茶にはそんな苦労があったとは知らなかった。 |
更に進むと、今度は下りの菊川坂の石畳みとなる。この石畳は石持参の広域募集のボランティアで復活させたとのことが掲示されていた。いつか自分もどこかでこういう企画があったら馳せ参じなければならないなと復活の苦労を忍びつつ、じっくり味わって歩いた。坂道を下りきると間の宿・菊川である。京側の宿場の外れには休憩所があるのでトイレタイムをとる。トイレを出たら中年の男性が「オウッ」私に向かっていうので「コンニチワ」と挨拶したが、無視された。振りかえってみると私の後ろにいた3人の仲間と話していた。山の上でもないので、知らない人から挨拶されるわけがないかと悲しく反省。 |
舗装された道を横断して再び坂道を登っていく。この坂道は途中緩くなるがけっこう長い。しかし車も少なく、茶畑をながめながらの道なので旅の気分を満喫して歩ける街道だ。坂道の途中には「舞を舞う少年?」の地元の言い伝えが書いてあったり、中山を歌った歌碑があったりして飽きない。坂道を登りきったところの右に、古刹久延寺がある。正月早々ということもあって門松や旗? で飾られていた。境内にはその昔街道にあった夜泣石が安置されている、が私はそれを知らなかったので、というよりガイドブックを見ると河原の方に夜泣石と記されているので、寄り道はできないと諦めていたので見逃してしまった。残念!その隣には子育て飴を売っている扇屋、その前には西行法師の歌碑「年たけてまた越ゆべしと思いきや命なりけり小夜の中山」が立っている。 |
さらに進むとガイドブックには載っていない佐夜鹿一里塚跡があった。その先にはガイドブックには載っているが解説の無い妊婦の墓、涼み松跡がある。小石姫の墓であるとか、芭蕉が涼んだ松の跡だとか一言解説を付けておいて欲しかった。また、この付近の街道には、東下りでここを通過した人の歌が石碑となって道端にたっている。それを読むと、もはや都にはもどれないと悲嘆するものが多い。都に育った人が、遠く離れた山深いこの地まで来るとそういう諦めの境地になるのだろうなと推察される。関東生まれの私にはいまいち理解しかねる・・・・。 |
そんなことを考えながら進んでいくと夜泣石跡にでる。道の左手に石碑があり、その20m位先の右手には夜泣石を描いた広重の日坂宿の絵が石に刻まれている。広重の絵はこの場所を描いたものなのだと思うと、デジカメのシャッターを押しつつも、当時の街道に思いがはせる。また、現場のリアリティから、広重は前後の街道を急な坂道としてデフォノメしてうまく書いているなと感心もする。しばし当時の街道模様に思いをはせつつ休憩。 |
さらに進んでいくと急な下り坂となる。この付近が沓掛といわれるところで、坂道の登り口で沓を替え、古い沓を木に掛けて旅の安全を祈ったことから沓掛の地名がはじまったことなどが解説してある。この坂を下った所に広重の日坂宿の絵(版不明)が掲示されてあり、目の前の国道一号線を越えるとその先は日坂宿だ。 |