54:大津宿(おおつ)
・天保14年の人口14892人、家数3650軒、旅籠71軒、本陣2軒
・667年、天智天皇によって近江大津宮に遷都され10年間都であった
・東海道が京都に入る最後の宿場であるので大いに栄え、宿数も東海道随一の規模であった
大津---大谷町---山科---蹴上---三条大橋 11.7km
2003年11月3日
午前9時50分、今日は朝から雨。3日前の天気予報では曇りだったが、今朝の予報では雨のち曇り。ホテルの外に出ると先程まで降っていた雨は止んでおり、この分だと予報のはずれが期待できそうな予感がした。ホテルから数10m歩いて東海道にもどり京都へと進んだ。最初の三叉路を直進したが違ったと思い、もどって右手の道へ進んだ。天保十二年のお堂を発見、江戸時代からの遺産を保存していることに感心した。しかし、見どころは「露国皇太子遭難の地碑」だ、地図では中央四丁目の端あたりにあるとのことなので、付近をうろうろしたが見つからない。焦っているところに期待に反して雨が降り出したので、仕方なくリックカバーと傘をとりだして装備完了。 |
地図をよくよく見ると私の居る所は東海道より一本琵琶湖よりの道にいることが分かった。先に三叉路を右折したのが間違いだったのだ。気を取り直して東海道にもどって探す。札の辻に向かって進むと、大きな通りの左手にとがった屋根の新しい大きな建物があり、滋賀県庁であることを確認。しかし「遭難の碑」が見つからない。丁度おじいさんが通りにいたので「遭難の碑」のある場所を訪ねたら、それなら二つ先の信号の手前あたりだと教えてくれた。やっぱり地元の人に聞くのが一番早いな、と感謝して前進。またもやガイドブックの地図の間違いでロスってしまった。中央四丁目ではなく、中央二丁目なのだ。自分のミスと地図のミスの複合ミスでだいぶ時間を無駄にしてしまった。雨の中を進んでいくと左手に「此付近露国皇太子遭難の地」の碑があった。その前には黒塗りの昔風の大きな建物があり、歴史を感じさせる風景だった。 |
先に進むと札の辻のある大通りへ出た。通りを渡って左折し、札の辻跡らしき目印を探したが何もない。右手の路地の入り口に「これより米町」と読める古い道標があったのでパチリ。そこへ路面電車が走ってきたので、へェーとおどろいてそれもパチリ。しかしだんだん雨が強くなってきたのが気がかりだ。左手に本陣跡があるので、車のこないことを確認して走って大通りを渡った。本陣跡の石碑を発見、なぜかそこは労働局の敷地の一角にくい込むように石碑が残してあるだけだった。 |
路面電車の線路を渡ってゆるやかな逢坂山への坂道を進んでいくと、右手の線路の先に蝉丸神社下社が現れる。この神社に詣でるためには踏み切りを渡っていくという珍しい神社だ。雨の中、遮断機付きの踏み切りを越えて境内をのぞいてみた。蝉丸という盲目の琵琶の名手の物語については、ここに来るまではまったく知らなかったので、珍しく思いつつ拝観した。謡曲、浄瑠璃、歌舞伎に出てくる蝉丸という方は醍醐天皇の第四皇子といわれているそうで、逢坂山に捨てられた不遇の人だったらしい。いまでは芸事の神様として敬われており、奉納の催しもおこなわれているとのことだ。関東の田舎者には知るよしもないことだなと思った。 |
この下社から出てくると、雨足は一段と強くなり、夕立のようなザアザア雨になった。ウヘーと観念しつつ坂を進むと右手に「逢坂」の名の由来を解説した碑があった。国道一号線と合流した道を逢坂山へと登っていった。右手に蝉丸神社上社の赤い鳥居が高台の上にあったので、階段を登って拝観した。国道にもどって左側を進むと、坂道の頂上付近の右手に逢坂山関跡碑を発見。国道ごしに写真におさめようとカメラを構えたところ、その瞬間、関跡がわにトラックが停車、運転手は降りて立ちションを始める始末だ。トラックが動くの待ったがどうやら休憩するらしくランプが消えた。トラックつきで写真をとるしかないと諦めたが、さらに国道を走る車の切れるのを待つこと数分、雨の中に立ち尽くしてシャッター押した。昨日もそうだったが、史跡の付近は広くなっているので、そこに停車や駐車する人が以外と多いことに苛立ってしまうが、旅人はたまにしか来ないから諦めるしかないのだと観念した。 |
さて、関跡の先で国道を横断して右手の道に入らなければならない。で、頭上にある歩道をわたると丁度いいと思えるのだが、そこへ登る道が付近にはないのだ。しかたなく強行横断することにした。先に来ていた二人連れが強行横断の構えをして車の切れるのをまっていたので私も一緒に渡るチャンスをまった。国道一号線の上下でうまく車が途切れるチャンスはなかなかこなかった。下りが切れたところで中央までいくと、上りの車が止まってくれたので、礼をして強行突破。二人連れより先に渡ってしまった。声をかけて一緒にわたるべきだったかなと後悔しつつ前進。右手の道に入って進むと、右手に鰻で有名な「かねよ」という老舗がある。その先には蝉丸神社の分社があり、さらにその先には元祖走井餅の石碑のたっている店があった。線路を渡ると、再び国道沿いに歩き、広重の大津宿に出てくる走井のある月心寺へと心が早った。 |
雨の中、車だけが行き交う国道の先に月心寺の門が見えた。国道を渡って左手の月心寺の塀に近づくと、塀ごしに走井をみることができるように、塀の一部が低く切ってあった。おお!これがそうだ。心の中で歓声を上げつつシャッターを押した。塀の中に走井は隠れてしまっているとガイドブックには書かれていたが、実在していることに感激した。さらに、月心寺の門戸を開いて中に入らせていただいた。声をかけても雨の中であり誰も出て来こなかった。苔むした走井、水は澄んでいた。その苔むした様に、往時には旅人の喉を潤した情緒がそこはかとなく漂っていた。ことろで、走井の由来であるこんこんと湧き出ている水の様子は、このときは雨水も一緒なっているのではっきりしなかった。この目で走井を見たことに感激したが、その気持ちを胸にしまって、月心寺の門戸を静かに閉め、雨の国道一号線を京都へと進んだ。 |
頭上の名神高速道路を越したところの交番前を左手に入って行く。しとしとと雨が降り続ける道端にコスモスが今を盛りと咲いていた。宇治と京都への追分に出たので右の京への道を進んでいくと、大通りでいきなり街道は遮断される。右手の歩道橋で大通りを渡り山科をめざして進んだ。そろそろ昼飯時だ、どこか適当な店で食べようと思いつつ歩いているとcafiの看板が目に入った。Eat&Cafiとあるのに気付き、「ラッキー!」と心で叫び、店の中に入った。店の自慢メニューである味噌汁つきハンバーグ定食を食べ、コヒーを飲んで昼休みをとった。その時、手前の追分のところで昼食をとっていたので追い越してきた夫婦の二人連れが、今度は追い越していった。京までの道は一緒なのかなと、雨の止みそうも無い外をしばしながめた。トイレにもいって体調を整えたが、水とコヒーを飲んだので京までもつのかなと不安を抱えて、Eat&Cafiの店「かな」出発した。 |
商店外の道なのに車の通行が多い東海道を山科の近くまでくると、右手に義士餅を売っている店があった。大石蔵之助が赤穂を出て仇討ちの意志がないと偽装する為に遊びまわっていたのがこの山科の地だったなと思いつつ、大石の当時の家までいくと寄り道になるので訪ねないで先を急ぐことにした。雨が止みそうもないなか、ついに大通りへと出た。ここは右へ曲がってJRのガードをくぐって、すぐのところを左へ入るのだ。「陵が岡みどりの径」という名が付いていたので迷ったがそこを進んでいった。すぐの十字路を左折していく。車の入れないような小道なのでこれでいいのかなという不安を抱えつつ進む。雨足が強くなってきた。街道は車が一台だけ通れる道幅となり坂道になった。あまりの雨の激しさに、道の交差する日ノ岡の登り口の屋根のある地蔵堂の様な所で小休止した。今日は東海道最後の日なのに、最悪のコンディションだなと嘆きつつも、京へはこの峠を越えればすぐそこだというはやる気持ちでいっぱいだった。 |
よしいくぞ!と奮起して、雨の日ノ岡峠を登った。登っていくと坂の左手に提灯の灯った亀の水不動があった。亀の口から水が出ていて、それを飲んで昔の旅人は峠越えにむかったとのことである。カメラを向けたが雨で暗くて、何回撮っても亀がうまく写らないのが残念だった。ここで天智天皇御陵へ行くのを忘れたことに気づいたが今更戻れないのでパスすることにして、先に進んだ。峠をこして国道までの道は車一台が通れる幅の道なのにけっこう車が来る。しかも雨が降っているので車が近くまで来ないと気がつかないのに、そんなことにはお構いなしで、スピードを上げ、ドケと言わんばかりに警笛を鳴らすのには閉口した。お手柔らかにお願いしたいものだと思いつつ東海道の道幅を今に残している街道を進んだ。 |
三条通に出ると、通を渡って右手の歩道を進んでいった。坂を下っていくと蹴上という地下鉄の駅の入り口付近で、人だかりがしていた。何だろうと思ってレンガづくりのガードをくぐるって見ると、その先に道があり、どうもそちらに行く人と戻ってくるひととで混んでいるようだった。ガードのところの案内をみると、右手にいくと琵琶湖流水や南禅寺とかがあると書いてあったので、時間もあるので南禅寺を訪ねてみることにした。すると驚いたことに南禅寺の正面に出ると、雨が小降りとなったとはいえ、ぞろぞろぞろぞろと大勢の人が歩いており、大型観光バスが南禅寺の門をくぐって進んでいった。紅葉見物や湯豆腐を食べる人でごった返していたのだ。紅葉は始まったばかりのようだったが、結構きれいだった。白壁の長い塀の先に紅葉の紅が雨にぬれて潤んでいる様はさすが京都の紅葉だなと感嘆した。三条通に戻ってガイドブックを見ると、大通りの反対側に粟田口刑場跡があるとかいてあるが通りを渡るにはだいぶ先の信号で渡って戻って来なければならないので省略する。いよいよ五十三次、最後の目的地、三条大橋をめざして一目散に進むことにする。 |