46:庄野宿(しょうの)
・天保14年の人口855人、家数211軒、旅籠15軒、本陣1軒
・石薬師宿からの距離は約3kmであり、東海道の中でも二番目に短い
・宿場の成立は最も遅く1624年、石薬師宿と同じで宿の経営は苦しかった

 庄野---中冨田町---井田川町---和田町---亀山 7.8km
 2003年10月3日、2012年1月8日





 国道一号線から分かれて右手に入って進むと、その先の十字路左に庄野宿の石碑と解説の看板がたっている。そして左に折れて宿場内に入ると、ひっそりとしているが街道筋の面影を残した家並みが現れる。連子格子の家などを見つつ進むと宿場中程左手に、広重の庄野宿・白雨の看板と旧小林家住宅が現れる。ここは、現在は庄野宿資料館であるが以前は問屋場だったと解説してある。デジカメでそこを写していたら反対側の家の方が出ていたので、広重の絵の場所はどこなんでしょうかと尋ねてみた。「はっきりしないが安楽川の付近じぁないかと聞いたことがある」と教えてもらった。地元でも定説は無いようだがこの先の安楽川が楽しみになってきた。


 宿場内を先に進み右手にある本陣跡を見付けようとして歩いたが発見できなかった。公民館前にあるのだそうだが見落としたようだ、代わりに高札場跡を見つけた。その先に進むと庄野宿の宿境であることを示す石碑が立っている。本陣1軒、旅籠15軒の小宿だったこともあって、あっという間に通過してしまった感がした。


 2012年1月8日、本陣跡を探して再び庄野宿を尋ねた。庄野宿資料館より200mくらい先の右手に庄野集会所があり、その横に本陣跡の石碑が立っている。石碑の側面の解説によるならば1624年に沢田家により設置されたとのことである。本陣跡の左側には高札場跡がある。以前来たときにはこの高札場跡は確認しているが、本陣跡は見逃してしまった。当時は工事中で標識が見えなくなっていたのかもな?・・・・と納得するしかなかった。(追記完)


 国道一号線と合流するのも束の間、その先で右から左に蛇行して地下道で国道一号線を越えていく。街道は国道一号線を斜めに横断していたのではないのかとガイドブックに疑問をもった。しかしそれは差し置いて次に現れる女人堤防碑をガイドブックをたよりに探したが現れない。おかしいと思い民家のおじさんに尋ねるとこの先の左にあるとのことだった。先に進んでいくと、ガイドブックの指示より300m程先に女人堤防碑あった。この石碑は、領主が堤防設営の嘆願を許可しないので女性達が夜中に6年もかけて堤防を設置したところ、それを咎めて女性達を処刑する拠におよんだ領主を家老が死を持って諫め、女性達は処刑を免れたという事件を後世に記したものである。そんな人々の苦労を弔うかのように、碑の前の街道には彼岸花が咲き乱れていた。


 先に進み中富田町に入ると、左手に中富田一里塚跡が現れる。そこにはその風景をスケッチしている人がいた。平坦な街道をしばらく進むと左手に式内川俣神社があらわれ、その先は安楽川の土手に突き当たる。休憩の為境内に入ったら奥にトイレがあったのでついでにトイレもお借りする。手洗いもあり感謝しつつ利用させてもらう。ところで、安楽川の両岸には竹藪が自生しているが広重の絵のような坂道が無いので同じ構図にはならないなと思った。庄野宿の周辺は全体として平坦な土地であり、坂らしい坂はないので広重の絵の構図らしくならないのだ。左手に折れ和泉橋を渡り井田川小学校付近の土手でカメラを傾けて撮ると、あたかも坂道のように撮れてしまう。それで撮ってみたのが上の写真だ。街道にもどり、以前の渡河地点で川岸に降り昼食にする。青空の下で定番のおにぎりを頬張り、お茶を飲んでしばし休憩。


 再び街道を進む。JR井田川駅の先には「亀山宿・江戸の道(旧東海道)」の掲示板が立ち、東海道の地図と日本武尊の墓陵のある能褒野神社が近くにあることが記されている。国道一号線を越え、椋川の橋を渡り、国道一号線をくぐって進むと右手の茂みの中に南無妙法蓮華経と刻まれた谷口法悦供養塔が現れる。かつてこのあたりに処刑場があり、受刑者の供養の為に法悦が建てたとのことである。その先の左手には若松港への道を示す和田道標がある。その後、一旦国道一号線と合流するが直ぐに右手に折れて分かれて進む。


 やがて和田一里塚跡が右手に現れる。一里塚跡をカメラに納め、街道をしばらく進むと大通りと交差する。この大通りを越すと、その先は亀山宿となる。



(45石薬師宿) (47亀山宿)

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