14:原宿(はら)
・人口1939人、家数398軒、旅籠25軒、本陣1軒
・この付近は富士川から流出する土砂で駿河湾が埋立てられた砂丘の上にある
・漁業で成り立っていた小さな宿である

 原---一本松---西柏原新田---河合橋---吉原 11.7km
 2002年9月21日、2011年8月1日





 13時過ぎに原駅に到着。駅のトイレを借用しようとしたが、駅の外にはトイレがないようだ。外にトイレがないなんて小田急のようでJR東海はサービスが悪いなと独り言。トイレはガマンすることにして、原駅をカメラに納めて前進。ガイドブック上では原宿の旧跡として白隠禅師という名僧の再興した松陰寺というのが載っているが、戻ることになるので省略してしまった。その他には本陣跡も高札場跡も記載されておらずなくなっているようだ。旧東海道にもどって見ると、延々とまっすぐな道が続き、両側には民家が続いている旧街道があった。


 2011年8月1日、本陣跡を探して再び原宿を尋ねた。前回はJR原宿駅から街道にもどったのが間違いだった。駅よりもっと手前の原交番東の交差点付近が当時の宿場の中心だったのだ。交差点手前の左手に白隠禅師の誕生地碑が現れる。500年に一度の名僧と仰がれた方だといわれているが、まったくしらなかった。その先に進むと右手に八幡神社が現れるが、そこは高札場跡と記されている。


 その先に進むと左手のラーメン屋の手前に問屋場跡碑が現れる。その先約100m位の左手に渡辺本陣跡が現れる。明治天皇も何度か小休止したことや、建屋と山林・畑を合わせると6600坪の広大な屋敷だったことなどがしるされいてる。(追記完)


 空が曇ってきたのでなんとか直射日光は回避できるので助かったなと思いながら足を進めた。一本松の先までくると、やがて右手に三社宮という小さな神社が現れた。神社の裏へ回ってみると誰もいないのでトイレタイムとした。この神社の鳥居越しに富士が見えた。なかなかの景色に記念撮影した。広重の原宿の絵にあるように、この付近からみる富士は、手前に愛鷹山をしたがえ、その奥に左右の稜線をなだらか延ばし、実に優美な姿だ。思わず立ち止まって振り返ってしまう旅人の気持ちがあの絵にはよく出ていると思った。


 その先に進むと右手に立圓寺というお寺がある。ここにはこの場所からみた富士の絶景をたたえた望嶽の碑という石碑がある。塀や民家が周りに立ちすぎて現在ではイマイチの感がした。碑の隣には近くの海岸にペルーだったかチリだったかの貨物船が座礁したときの記念の錨があった。


 先に進むと昭和放水路というものがあった。この付近一帯はもともと沼地だったそうで海岸線は富士山からの流出土が体積してできたそうで、たしかに海岸線側よりも右手の方が下がっていることがわかる。毘沙門天と富士市街とに別れるY字路にでる。左手の毘沙門天・富士マリンプール側に足を進める。大昭和製紙工場の高い煙突からの煙は旧東海道というロマンチックな気分を産業社会と公害という現代に、強引に私を引き戻かのようだ。ここ吉原は昔から駿河半紙の生産地であったとのことで和紙生産から近代的な製紙産業へと転換してきたのであって、和紙の衰退という苦い思いをしてきたのである。なお、この付近は元吉原という地名であるが、もともと吉原宿はここにあったのだが、何度も高潮の壊滅的被害を受け、海から奥の今の地へと移ったとのことある。


 煙突から吹き出す白い煙を見上げつつ工場前を通過し線路を渡り左手に進みやがて河合橋にでる。この川沿いにも製紙工場があり高い煙突があった。新幹線のガードをくぐったところでそのまま大通りを直進していくと、川が左手ではなく右手になっていた。あれ、間違えた。左手に川がなければならないのだ。ガード付近までもどって、川沿いの右の道に進む。この先は吉原宿だ。



(13沼津宿) (15吉原宿)

ホーム東海道>原宿