43:桑名宿(くわな)
・天保14年の人口8848人、家数2544軒、旅籠120軒、本陣2軒
・平安時代以降、桑名神社(春日神社)を中心とした桑名は「十楽の津」と呼ばれ、楽市が開かれていた
・七里の渡しの鳥居は、ここから伊勢の国であり、お伊勢まいりの出発点であることを示すもの

 桑名---町屋橋---朝明橋---八田町---海蔵橋---四日市 12.5km
 2003年6月7日





 8時20分、桑名宿の旅籠、ニューあづまホテルを出て七里の渡し跡に向かう。船馬町手前で湊の倉庫跡のような景色が現れる。そしてDパックを背負った人たちがパラパラと歩いている。どうやら七里の渡し跡に向かっているようだし、今日はこの人たちと一緒のようだ。福島城南線という大通り渡って進むと、左手に大塚本陣跡(料亭船津屋)、久保田万太郎句碑が入り口に立っている駿河屋脇本陣跡(料亭山月)とが現れる。


 その先の塀際に七里の渡し跡の石碑がたっている。この塀の奥に七里の渡し跡があった。お伊勢参りの出発点という意味をもつ伊勢国一の鳥居と、1856年建設の常夜灯や松の木が狭い敷地に立っている。遠くには復元された白壁の桑名城の建物が見える。広重の桑名宿の絵はこの七里の渡しの船着場を描いたものだ。海側からみると広重の桑名宿の絵になるかと思い気や、鳥居横の現代的な水門が真ん中で大きな顔をしていて情感を台無しにしていた。う?残念!


 船着場から街道にでると左手の空き地横に舟会所跡と問屋場跡の石碑があり、そこにはそれぞれの跡地は定かではないとある。ん・・・・。数百m進むと左手に桑名城址があり、来訪者を見ている本多忠勝像前を通って城跡に入り、トイレ休憩し一見して街道にもどる。余談だが家康の孫千姫は大阪城から救出された後、ここの桑名城へ嫁いできたとのことだ。街道の先右手には春日神社(桑名神社)の青銅の鳥居が現れる。鳥居の横には人探しの張り紙に使われた志るべ石がある。


 三之丸堀に沿った街道は突き当たりで右折し、大通りを渡った先を左折する。しばらく歩くと指さしの付いた「左 江戸方、右 京いせ方」の道標があり、その先には吉津屋見付け跡碑が現れる。光徳寺など寺の並ぶ通を過ぎて右折すると、壬申の乱の時にここに来て宿泊したといわれている天武天皇社という神社が現れる。


 その先には当時の面影を残す中川梵鐘店、突き当たりの角には矢田の立場跡と再建された火の見櫓がある。ここを左折して街道は町屋橋へと向かう。途中には連子格子の家があり街道筋の面影を残していると思っていたら、当時この付近は人家はなく松並木だけだったとか。その松並木はなく、逆に人家が続いている。ところで、一緒に歩いている方たちの持っている地図を見ると桑名市民歩け歩け大会と書いてあった。旧街道を含んだ市内一周コースを歩くらしい。町屋橋までは一緒なのだと納得。町屋橋手前には常夜灯がたっている。


 その先の川岸にある町屋橋跡の広場で、市民の方々と一緒に休憩。歩け歩け大会参加者達は川沿いに北上するので、ここから先の街道歩きは一人となる。国道一号線の橋を渡り、その先で右手に入り街道にもどって進む。近鉄朝日駅の手前、左手に新しい一里塚跡の石碑が現れる。東芝の大きな工場が目の前に建つ朝日駅前の広場には、当時この付近で街道を通る旅人に焼き蛤を売っていたという掲示板があり、「その手は桑名の焼き蛤」の語源はこういうところにあったのかと納得する。その先には樹齢300年という榎が街道脇に立つている。一里塚跡の榎ではないの?と素朴な疑問がわくのだが。


 その先をしばらく進むと右手に浄泉坊という寺が現れる。徳川家縁の寺であり、山門の扉に三つ葉葵の紋ある。このため参勤交代の大名はここで一礼をして通過したという。浄泉坊を後にして朝明橋の手前付近まで来ると青々とした田中の道となる。桜の木陰にて田をわたってくる風を味わい、しばし休憩。炎天下は辛い。朝明川土手にある常夜灯を確認して朝明橋を渡る。


 そこからしばらく進み、蒔田町に入ると右手奥に長明寺が現れる。山門前に堀が巡らされているという珍しい造りだ。三岐鉄道と近鉄線のガードしたを通過した先、右手に富田の一里塚跡の石碑が現れる。その先には八幡神社跡が現れ、村の若者たちが力比べに使ってきた八幡神社に伝わる力石(重量100kg)が置かれていた。その先で右手に曲り十四橋を渡り常照寺前を通過し突き当たりを左手に曲がる。が、その突き当たりの場所に新設用水道碑と力石(120kg)がある。明治の中頃に付近の寺の再建に集まった村人達が力比べに使ったとのことである。挑戦してみたがビクともしなかった。


 街道を進み、米洗川手前の常夜灯を確認し、川端の中華料理屋で昼飯にした。その店には橋側から撮った古い常夜灯の写真が飾ってあり、当時は常夜灯と街道の松の木以外は何もないという風景だったことを示していた。貴重な写真なので女将さんに聞いたがいつのころかはわからないとのことだった。記念にカメラに納めさせてもらった。うれしい発見に胸おどらせて店を後にし、橋側から常夜灯をデジカメに納め、風景が一遍していることを改めて実感した。余談だが、ガイドブックには茂福町に富田一里塚があると書かれているのでおかしいと思いつつ探したがなかった。誤記としか言いようがない。


 先に進むと街道左手にぽつんと松の木が立っている。旧街道の面影を残す松の木とのことから名残松というそうだ。3年前の写真には松の木は2本あったのだが・・・・。城山町で左折して国道一号線と合流し、しばらく進んで海蔵川手前のY字路を左手に進み川に突き当たったら右折して国道一号線の橋を渡り、また左折して街道にもどり歩く。途中に名物のなが餅を売る笹井屋が予定より早く登場するので、あれ?と思った、がこれは本店ではなく支店のようだ。そして街道は三滝川に突き当たり、土手にある三つ谷一里塚跡碑を見て進み、三滝橋にでる。この橋を渡るとその先は四日市宿だ。



(42宮宿) (44四日市宿)

ホーム東海道>桑名宿