40:池鯉鮒宿(ちりゅうふ)
・天保14年の人口1620人、家数292軒、旅籠35軒、本陣1軒
・池鯉鮒の由来は知立神社の池に鯉と鮒とがいたことに由来すると言われている、今は知立市だ
・古くから馬市が開かれ、江戸時代には慈眼寺周辺で特に盛大に行われていた

 池鯉鮒---阿野一里塚---桶狭間古戦場---有松---鳴海 11.0km
 2003年4月30日、5月1日





 国道一号線を横断する地下道を出た所で、前方の左手の道を進んでいく。地下道から500m位進んだ右手の奥に慈眼寺という寺がある。池鯉鮒宿ができたころから馬市はその付近で行われるようになったとのことだ。当時そこには談合松という一本の松があり、その下で売買をしたようである。広重の絵はその風景を描いているものだ。しかし、当日私は300mの寄り道が億劫になり省略してしまった。よって上の写真は談合松周辺の写真がないので牛田町の写真で代替となった。残念!


 宿場内を進んでいくと右手に街道筋の面影を残す瓦屋根の家並みが現れる。さらにその先の右手に問屋場跡の碑がある。近代的なタワービルの前を通過し商店街の道を渡った先、左手には本陣跡があるはずだが見つからない。左手の路地に入って酒屋の方に聞いたら、そのまま進んで左手にあるとのことだった。言われた通りにいくと左手の空き地隅に本陣跡の碑があった。ガイドブックは街道沿いにあるように書かれているがそうではなく、街道から一本左の道に面した所に本陣跡はあるのだ。今日はこの池鯉鮒宿泊まりなので、丁度宿場の中程の位置で切り上げ、旅籠に向かうことにした。名鉄知立駅の裏側にビジネスホテル知立があった。フロントが2階にあり部屋は1階という珍しい造りだった。


 翌朝、旅籠を立って宿場はずれの宝蔵寺に行き、追腹塚と加賀野井弥八郎墓を見た。家康暗殺の命をうけた石田三成の家臣加賀野井弥八郎は酒席で刈谷城主水野忠重を殺害したが、同席していた駿府城主堀尾吉晴に討ち取られた。しかし忠重の家臣は吉晴が殺したものと勘違いして吉晴を討ち取ろうとしたが逃げられてしまい、責任を取って切腹した。こういう戦国武将の悲劇の二人を供養する為に追腹塚と加賀野井弥八郎の墓を築いたとのことである。地元でないと知り得ない歴史の一こまだなと感心した。ところで加賀野井弥八郎の立派な墓が裏手にもあったので、何故だろうという疑問を抱えてしまった。


 街道にもどり、突き当たりの鉤の手を右に曲がった先に知立城址があり、広場に石碑が立っている。その先を左に曲りしばらく進むと大通りと交差する。交差する手前に地下道入り口があったのだが、それを見落として大通りにぶつかっため横断のすべが分からず、止むなく右手に折れて進み知立神社前の立体交差を渡ることにした。知立神社に入ると小学生が写生に来ていてワイワイガヤガヤとにぎやかだった。多宝塔と本殿、それに芭蕉の句碑「不断立つ池鯉鮒の宿の木綿市」を見て、シャッターを押した。この神社の創建は日本武尊命の東征の帰りに伊知里生命をここに残したことに始まるとのことで、大分古いようだ。


 再び街道にもどり、逢妻橋を渡りその先で国道一号線と合流して進む。今岡町でY字路を左手に進み国道一号線と分かれる。しばらく進むと右手の小川の脇に、「旧芋川の地=ひもかわうどん発祥地」の表示杭と灯籠があった。へえ~ここがうどん発祥の地なのかとシャッターを押した。しかしあまりにも味気ないので出来ればチットした解説が欲しいな~と独り言をいいつつ前に向う。その先に進むと街道筋の面影を残した家があった。国道一号線を横断して進むと、三河と尾張の国境である境川に架かる境橋を渡る。その先で再び国道一号線と合流して進む。天気がいいので日差しがきついなと思いつつ、立体交差する道を進んでいくとそろそろ阿野一里塚だと思ったが見当たらない。


 おかしいなと地図を見たら立体交差の手前でY字路を左手に入らなければならないのに国道を直進していたのに気がついた。またやってしまったと自戒し、左手の旧街道に入って阿野一里塚までもどる。この一里塚は左右とも現存しているという貴重なものであり、地元の方々の努力に感謝したい。早速、当時の旅人のように木陰でお茶とお菓子で休憩をとった。木陰は旅人のオアシスだなと実感した。ここで一息ついたので、次は桶狭間まで緩い登り下りの街道を一気に歩いた。


 名鉄のガードを潜り、高徳院の看板の立つ所を左に曲がるとその先の公園が桶狭間古戦場跡である。公園内の奥には織田信長の急襲で破れた今川義元の墓がある。ここがあの有名な桶狭間の闘いの場所なのかと感慨深く眺めていた。公園内には2、3人の人が休んでいたが、時間もいいのでここで昼食を取ることにした。静かにおにぎりを頬張っているとワイワイガヤガヤと小学生達が入ってきて、ここで弁当を食べるよう先生が指示した。閑静な公園はたちまちにぎやかな場所に一変し、色とりどりの弁当が開かれていた。先生らしき人に聞くと6年生達で、今日は学校から歩いてここまで来たとのことだった。


 旧街道にもどり、大将ヶ根のY字路を右手に入り進んでいくと旧街道の面影を残す連子格子の家並みが現れる。昔は立場があった有松だ。白壁の土蔵やうだつのあがった家根をもつ絞り問屋井桁屋(服部家)が現れる。“うだつ”そのものを知らないで使っていたなと暫しみとれる。1608年竹田庄九郎によって始められた有松絞りの地がここだ。江戸時代に建造された絞り問屋が軒を並べる一角には連子格子の竹田家やなまこ壁の岡家がある。まるで映画のセットの中でもあるかのように当時の面影を残していることに驚き感激した。ところで広重の鳴海宿の絵は、鳴海宿から2kmほど手前の、ここ有松の街道筋を描いたものであり、今でも絵に登場してくる有松絞り商家の重厚な建物が現存しているのだ。


 今までに見たこともない有松の情景に興奮さめやらずに街道を進んで行く。名鉄の踏み切りを渡り、やがて大きな通りと交差する地点にでる。街道の前方左には秋葉山常夜灯が立っている。この先は鳴海宿だ。



(39岡崎宿) (41鳴海宿)

ホーム東海道>池鯉鮒宿