44:四日市宿(よっかいち)
・天保14年の人口7114人、家数1811軒、旅籠98軒、本陣2軒
・四日市は湊と市場から発達し、1470年ごろから定期市が開かれた
・やがて毎月4日をはじめとして月6回の市が開かれ、伊勢参拝の分岐点ともなって大いに賑わった

 四日市---追分---采女町---下大久保町---石薬師 10.7km
 2003年6月7日、2012年1月7日





 三滝橋の袂に立つと、強風の中で三滝橋を渡ろうとしている旅人と橋を取り巻く風景を描いた広重の四日市宿の絵が浮かぶ。当時の橋の面影をどこにも残していない近代的な橋を前にしつつも、同じ構図でデジカメのシャッターを押してみる。橋を渡った先の土手でチョット休憩。どうも足が痛くなってきたようだ。街道にもどると目の前に名物のなが餅を売る笹井屋がある。


 2012年1月7日、本陣跡を探して再び四日市宿を尋ねた。なが餅の笹井屋の先に進んでいくと、右手に近藤建材現れるが、ここは帯や脇本陣跡である。その先の福生医院が問屋場跡である。その先に進むと、十字路となり右角に駐車場が現れる。ここが四日市宿一番の清水家本陣があった跡だ。ここは札ノ辻といって往時は一番の賑わいだった所だが交通が変わり、空襲で一帯が焼け出され、今はたんなる住宅街となっている。街道筋の面影を残しているのは笹井屋だけである。


 その先に進むと右手に黒川農薬商会が現れる。ここは黒川家本陣跡である。なお、街道を右に曲がり、国道をわたって一つ奥の路地に入るとビルの谷間に薬師寺がある。そこには黒川家本陣にあった門が移築されてある。これも街道筋の面影を残しているものだが、ビルの景色とマッチせず廃屋のようでわびしいかぎりだ。(追記完)


 しばらく進むと十字路の右角に手差し道標が立っている。指が葉っぱに隠れていて見えにくいが、そこには「すぐ江戸道」「すぐ京いせ道」と書かれている。「すぐ」というのは「まっすぐ」という意味なのだそうである。しかし指している方向が道路にあっていないで斜め方向をさしている。横の解説板をみると当時はここの角から斜めに国道一号線を横断して対岸の商店街へ入る道になっていたとのことだ。区画整理で斜めの道は消失させられてしまったようだ。残念!


 商店街に入ってみると、諏訪神社の先からはアーケード付きの道となっており、街道は文字どおり商店街に変貌しているのだ。 これには驚いた。そこで商店街のお土産として蛤の佃煮を買った。アーケードを抜け、しばらく進むと崇顕精舎の碑があり、その横には作家である丹羽文雄の誕生之地であることが刻まれている。その先には連子格子の家もあり街道の面影を残している。ところで宿場を通過してしまってから、本陣跡も問屋場跡も見付け跡もないことに気づいた。当時は本陣が2軒、旅籠が100軒弱あった大きな宿場だったのだから、せめて石碑くらいは復活させて欲しいと思うのだが、どうだろうか。街道時代の核となる面影がまったく無いのはチョット寂しい。


 街道を進んでいくとけっこう車が通ることに悩まされる。歩道もない狭い道なので車がくるたびに横にどけなければならないのだ。国道一号線に出るためか、またはバイパスとして使っているようで、街道をいく旅人としてはやや不満がたまる道だ。是といった見るものもなく、ひたすら歩くのでイライラするのかもしれない。途中に旧東海道の松というのが一本あったのが唯一の救いだ。かってこの当たりは松並木が続くところだったと解説があった。ところでガイドブックには日永町のジャスコ近くに日永一里塚跡があると書いてあるが発見できなかった。見落としたのかな?


 追分町で国道一号線と合流すると、その先に日永の追分が見える。左が伊勢道、右が東海道だ。この分岐店は間いの宿でもあった。神宮遥拝鳥居、常夜灯、「右京大阪道」「左いせ参宮道」と刻まれた道標と珍しい灯籠付き道標などがある。このとき、追分の前には駐車があって邪魔だなと思っていたら、追分を掃除をしているような様子だったので、納得。信号待して追分に行くのが面倒となり、国道越しに追分を見て後にした。


 近鉄線の追分駅の先で国道と分かれ、左手の住宅街の道に入る。ここは、それまでとは違ってほとんど人も車も通らない道だった。静かな街道を進み、途中にある小古曽神社を見学する。参道前にトイレがあったので丁度いい休憩地だ。街道は内部川にぶつかるので手前で左折する。道端には黄色いコスモスのような花が輝いている。


 街道は内部橋を渡り、その先でY字路を左手に入る。やがて左手に杖衝坂碑と芭蕉句碑が現れるはずなのにそれらしいのが見当たらない。探してもないので道端にいた地元のおばさんに尋ねたら、それはその先を右に曲がった坂の途中にあるとのことだった。またもやガイドブックの誤記にふりまわされたのに腹がたった。お礼を言って早速いってみると、急な坂の手前側に、傷をおった日本武尊が杖をつきながら登った坂であることを示す杖衝坂碑と、その先には江戸から伊賀に帰る芭蕉がこの坂道で落馬したときに読んだ句「徒歩ならば杖衝坂を落馬かな」の句碑がたっている。なるほど急勾配な坂道だと坂を登って実感する。


 その先に進むと日本武尊が足の血を拭った血塚杜が左手に現れる。平坦な街道を1km位進むと国道一号線と合流し、また1km位進むと国道一号線と分かれて左手に入っていく。再び国道一号線と合流する手前の下り坂で道端に腰を下ろして小休止にした。足の痛みがきつくなってきたし、疲れてきて早く楽になりたいと投げ出したくなってしまったのだ。しかし、鉄道とはだいぶ離れているので、予定のコースを歩く以外に楽になるすべがないと、自分に言い聞かせて歩いて来た。お茶とお菓子を食いながら、目の前の畑で母親と小学生の子供が芋堀りをしている姿をぼんやりと眺め、自分の子供のころを懐かしく思い出した。腹に炭水化物を入れると元気がでてきた。早速、国道一号線を横断して右側を歩き、Y字路を右手に進んで国道一号線と分かれ、ゆるやかな坂を登って石薬師宿へと向かう。



(43桑名宿) (45石薬師宿)

ホーム東海道>四日市宿