05:保土ヶ谷宿(ほどがや)
・天保14年の人口2928人、家数558軒、旅籠67軒、本陣1軒
・東は橘樹神社付近の見付から、西は外川神社あたりまでが宿場
・江戸から8里9町の宿場なので、やや早いがまずは1泊というところ
保土ヶ谷---権太坂---品濃町---柏尾町---戸塚 8.8km
2002年5月12日、7月6日
八王子街道(国道16号線)を越えた少し先の左手に、保土ヶ谷見付跡を示す掲示板が現れる。ガイドブックには記されていない新しいものの発見だ。保土ヶ谷宿が帷子(かたびら)川の手前から始まっていたのには驚いた。その先に進むと右手に橘樹神社が現れる。さらに進むと帷子川にかかる橋が現れる。おお!ここがあの保土ヶ谷宿の絵となった風景だと感動したが、あたりは薄暗くなっていたので、後日写真を取り直すことにした。 |
橋を渡り、相鉄線の天王町駅のガードをくぐった先で車が行き交う通りと合流して保土ヶ谷宿へと進んでいく。(このとき私は、駅のガード下のその先に、旧帷子橋のモニュメントがあろうとはつゆしらず、帰ってしまった。後日、他の方のHPを見ていてこのことに気付き、駅前を歩きながらこんな歴史的な遺跡を見落としていたことに驚いた。意外と自分の目は節穴だなと恥じ入る次第だった。その後天王町駅前公園で、旧帷子橋跡の掲示板と旧帷子橋モュメントを渡り、現在の帷子橋も渡って写真をとってきた。昔の帷子川は天王町付近でだいぶ蛇行していたので、その為に現在のように川筋が変更されたようである) |
JR保土ヶ谷駅手前の左側歩道に、江戸時代の保土ヶ谷と現在の保土ヶ谷との対応を示す「保土ヶ谷周辺散策案内図」がたっている。それを見て旧東海道の面影を忍び、一息ついて進んでいく。旧街道は駅前を通過しないで直進しているのだが駅ビルによってトイレタイム。 |
再び街道にもどって進むと東海道線の踏み切りの先で国道1号線に合流して右折することになる。この合流地点の正面が保土ヶ谷の本陣があった所だ。赤い屋根と石塀に囲まれているのでパッと見では見落としてしまいそうだが、よく見ると「本陣跡」であることが看板と塀に書かれている。その先にも当時の様子を示す掲示板等がある。外川神社を左に見て進むと、国道はゆるやかに左にカーブする地点でY字路となるがここで国道とわかれて直進する。 |
やがてT字路に突き当たる。右手にガードあるがここを左折して200m程度進み、右手の住宅街の坂道へと右折して進む。この坂が東海道の最初の難所といわれた権太坂だ。5月3日のときには住宅街のこの坂とは気づかずに通りすぎ、国道の坂道をそのようにいうのかなと思いつつも、どうもガイドブックの解説と周りの風景が違うので「おかしいなー」と疑念をいだきながら東戸塚までいってしまったのだ。今日はそのリベンジなので意気軒昂、足が進む。光陵高校を右に見て、権太坂小学校を左手に見て進む。坂を登り切って住宅街を進むと、難所というわりにはそれほどのことも無いなと実感する。やがて境木中学校が正面に見えるT字路となるが、ここを右折して進む。 |
その先には黒板塀と木々で囲まれた旧家があらわれる。ここが名物の牡丹餅を作っていた若林家だ。当時の面影を忍びつつ先へと急ぐと、その先の右手には境木地蔵の祭られた地蔵堂がある。武蔵と相模の国境のこの地に大欅と地蔵堂があったことからこのように呼ばれたとのことだ。写真は入り口の地蔵をとったもので、本来の地蔵はお堂の中にある。 |
ここで左手に曲がり坂道を下っていく。その先には品濃一里塚が道の両側に今も残っている。両側に一里塚が残っているのは、神奈川県内では唯一ここだけで県の史跡に指定されているとのことだ。やがて旧街道は住宅地と畑の中の細い道となっており、一抹の不安をいだいて進むとやがて大通りを渡る歩道橋にでる。ここに品濃坂という坂道が昔はあったようだが今はその面影など微塵も無く、ただ車の騒音がひびく陸橋でしかないのが残念だ。 |
その先では川沿いに進みやがて国道1号線にぶつかるが、そこを横断してそのまま進んでいく。やがて国道1号線と合流し、山崎パンの工場を右に見つつ進む。国道が二手に別れる手前の不動坂で街道は左の通りに進む。左手の石垣の上に益田家の大きなモチの木があり、街道の目印となっている。また右手には当時を忍ばせる旧家の建物が見えてくる。ブリジストンの工場に突き当たった所で国道一号線に合流して左折する。その先、右手のファミレスの前にある見付跡の石碑を見落としてしまった。 |